令和5年3月に公開された庵野秀明監督最新作『シン・仮面ライダー』を劇場で3回観た。世間的には「期待はずれ」との評価も散見されるが、個人的には何度も観たくなる傑作だった。
どうしても『シン・ゴジラ』のインパクトが大きすぎたので、それとの相対評価となり、前作の『シン・ウルトラマン』含め、拍子抜けする観客が多かったのかも知れない。ちなみに私は前二作も好きで、もう何度も観ている。
庵野秀明氏による一連の作品群は、娯楽作品として優れているのは無論だが、戦後日本社会に対する批評や暗喩が随所に織り込まれてきた。その視点は、世界的アニメーターである宮崎駿氏とは明らかに異なる世代的特徴がある。
庵野氏は昭和35(西暦1960)年生まれ、宮崎駿氏は昭和16(西暦1941)年生まれだ。約20年の差があり、親子ほど離れていると言ってよい。その最大の違いは、戦争体験の有無だろう。宮崎氏は幼少時に米軍による空襲(宇都宮空襲)に遭遇している。
守るための「暴力」に慄く
『シン・仮面ライダー』の原作にあたる初代仮面ライダーのテレビシリーズが放映開始されたのは昭和46(西暦1971)年だ。この頃、庵野氏は11歳くらいなので、まさにドンピシャの世代だった。(ちなみに筆者は昭和57年生まれで、リアルタイムに観ていたのは昭和63年放映開始の『仮面ライダーBLACK RX』)
これらシリーズ作品群と庵野版『シン・仮面ライダー』の最大の違いは、冒頭の残酷描写に現れている。ヒロイン(浜辺美波)の危機に際して突如現れた仮面ライダーは、敵の戦闘員(ショッカー)を次々に撲殺する。その際、倒れる敵から大量の血液が飛び散る様が演出されるのである。
念のため、Youtubeで公開されている初代仮面ライダーの第一話を確認したが、当然ながらこのような残酷描写はない。
映画冒頭での遭遇戦の後、主人公である本郷猛(池松壮亮)は我に返り、いつの間にか肉体をアップグレード(改造)されていた事実を知らされ、その暴力性に慄くのである。そして、そんな己に期待される「使命」を聞かされながらも、戦うことに躊躇し、苦悩する様が描かれる。
この「戦うことを忌避し、苦悩する主人公」には既視感がある。庵野秀明氏のライフワークとなった『エヴァンゲリオン』シリーズの主人公・碇シンジである。シンジは中学生でありながら、父親から巨大兵器(人造人間)に搭乗し、未知なる敵「使徒」を殲滅することを強いられ、苦悩する。
『シン・仮面ライダー』の本郷猛は、かつて藤岡弘、が演じた初代ライダーよりも、碇シンジに似ているのである。
男児向けの娯楽作品において、ヒーローである主人公が「戦うことを忌避し、苦悩する」というのは、戦後日本の、特に戦争経験を有しないクリエイターに特徴的であるように思われる。このような苦悩は、アメコミやハリウッドのヒーロー物にはあまり見られないし、その他の国でも同様に思われる。
こじつけに思われることを承知で云うと、戦後教育を受けた日本人には憲法9条に象徴される「反戦平和主義」が刷り込まれており、そのため、「弱者を守るため」とはいえ、「暴力を用いて戦うこと」に忌避感が生じるのではないか。
『シン』シリーズで描かれる「属国日本」
ところで、『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』では巨大害獣の出現に際して日本政府が対応に苦慮する様が描かれていた。その中で、登場人物である政治家や官僚の台詞に「日本は属国だから云々」という、諦念を伴った表現が頻出していた。
この「日本は属国」という表現は、われわれの日常生活であまり耳に馴染まない。確かに日本はGHQ占領下に制定された憲法典を護持し、そのためわが自衛隊は諸外国軍に比べて著しい活動制約に縛られている。しかし大多数の日本国民はそのことを不自由と実感する機会は殆どない。
庵野秀明氏が特撮娯楽映画の脚本を制作するにあたって、このような表現を挿入した意図は不明であるが、観客は破局的危機に際して浮かび上がる戦後日本の実相を目の当たりにさせられ、その制約を乗り越え、危機を脱する主人公たちに喝采を送る。
『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』が巨大害獣に対処するのに対し、同じ特撮でも『シン・仮面ライダー』では政府内部の様子は描かれておらず、そのため前二作のような政治的台詞は登場しない。
しかし私が不自然に感じたのは、中盤で本郷猛が米軍機を利用したシーンだ。『シン・仮面ライダー』には「政府の男(竹野内豊)」と「情報機関の男(斎藤工)」が本郷たちの前に現れ、SHOCKER殲滅のために協力を依頼する。本郷はそのコネクションを利用して米軍機の協力を取り付けたと思われるのだが、なぜ自衛隊機ではないのか。
『シン・仮面ライダー』は防衛省自衛隊の協力も得ており、作中には自衛隊機が並ぶ格納庫の様子も描写されている。『シン・ゴジラ』では自衛隊に防衛出動が下命され、自衛隊がゴジラ駆除戦の前面に立っていたわけだが、『シン・仮面ライダー』では(そう匂わされる台詞があるものの)自衛隊は戦っていない。
おそらく、『シン・仮面ライダー』の主敵であるSHOCKERは国内のテロ組織であり、主にSHOCKERに対処しているのは警察組織なのであって、自衛隊には人命救助や情報収集以上の任務が与えられていないのではないだろうか。そのため、本郷は自衛隊機を利用できず、米軍機から敵基地を攻撃する他なかったのだろう。
「政府の男」「情報機関の男」は何者なのか?
『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』では外的に対処する政府機関の名称がわざわざ字幕付きで明示されていたわけだが、『シン・仮面ライダー』に登場する「政府の男」「情報機関の男」は最後まで正体を明かさない。それどころか本名さえ名乗っていない。(最終場面で苗字を名乗るが、本名という確証はない)
そして不自然なのは、「政府の男」「情報機関の男」と呼称が別れている点だ。この二人はバディを組んでいるわけで、もし所属組織が違っていたとしても、このように呼び分ける必然性がない。素性を隠している点から、両人とも「政府系情報機関の男」であるに決まっているからだ。
「政府の」という言い方には、「中央官僚」の他に「政府の役職についている与党国会議員」という可能性も考えられる。しかし国会議員であれば、名前を隠す意味がない。
「情報機関の」という言い方も妙だ。わが国の情報機関は限られており、中心となっているのは警察組織である。他には自衛隊の情報機関もあるにはあるが、前述の理由からテロ組織対処の前面に立っているのは警察であり、であるならば「情報機関」ではなく「警察」で良いのではないか。
一方、作中で「政府の男」「情報機関の男」はヒロイン・緑川ルリ子に拳銃を支給している。日本の警察が民間人に(特例とはいえ)武器を支給するというのは考えにくい。警察の銃器は持ち出しが厳しく管理されており、それは自衛隊も同様だ。
以上を総合的に勘案して筆者が想像するのは、「政府の男」は日本の情報機関に所属するエージェントであり、「情報機関の男」は米国の情報機関に所属するエージェント、という設定だ。そう考えれば、主人公が米軍機を利用できたことも辻褄が合う。
この場合、おそらく日本の情報機関は「内閣情報調査室」(日本の情報機関のトップ)であり、米国の情報機関はCIA(中央情報局)もしくはDIA(国防情報局)だろう。特にCIAであれば、外国人に武器を供与するのはごく普通の工作活動としてやってきた事実がある。
庵野秀明氏の性格からして、娯楽作品であっても上記のような「現実性」は緻密に設計されているに違いない。
『シン・仮面ライダー』においてSHOCKER対処行動は複数勢力が競合していることが「われわれも一枚岩ではない」という政府の男による台詞で匂わされている。これは日本政府の省庁間の対立(例えば警察と自衛隊の縄張り争い)というよりは、日本政府と米国の主導権争いを指しているのではないか。
そういえば『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』でも米国政府をはじめとする諸外国が積極的な干渉に乗り出していた。その国際的圧力の中で、属国日本は苦慮するのである。
日本人は戦えるようになるのか
『シン・仮面ライダー』で幕を閉じた「シン」シリーズだが、いずれも現代日本を鮮やかに炙り出した、社会性のある作品だったといえる。
幸い、現実社会ではゴジラも外星人も、SHOCKERのような高度な科学技術を擁するテロ組織も現れていない。しかし今後、これらに匹敵する破局的危機が日本を襲ったとき、作中の主人公たちのように日本人は戦うことができるだろうか。
単なる娯楽作品と侮ることなく、これを契機に危機に備えていきたいものだ。
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