若い世代のための三島由紀夫入門 三島と森田が投げかけた問い

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三島由紀夫といえば戦後を代表する文学者です。ノーベル文学賞の候補になったことでも有名で、『金閣寺』などは国語の教科書でも紹介されています。純文学だけでなく戯曲や娯楽小説も書き、映画製作、出演もこなした文字通りのスターでした。

そんな時の人が、「楯の会」という学生を集めた「私設軍隊」をつくり、自衛隊に立て籠もってクーデターを呼び掛けた挙句、武士のごとく切腹したわけですから、当時の人々はたいへんな衝撃を受けました。

当時の人々の多くは、なぜ三島由紀夫がそんな事件を引き起こし、切腹という古臭い方法で自殺したのか理解できませんでした。中曽根防衛庁長官(後の首相)などは、「気が狂ったとしか思えない」と批判しています。文芸評論家の多くは、「三島美学のナルシズムに殉じた」などと分析し、よくある文学者の自殺の一種と捉えようとしました。

しかし後の研究で徐々に明らかになったことですが、三島由紀夫はある時期まで本気でクーデターを起こすつもりでした。それは自衛隊によって国会を占拠し、武力によって憲法改正を実現する、といったものです。三島由紀夫と楯の会は自衛隊による訓練を受けており、それは情報収集の分野(スパイ活動をイメージしてください)にまで及んでいました。

実際、自衛隊幹部の中には三島由紀夫に同調していた人々がいたようです。陸上自衛隊の元陸将補・故山本舜勝(きよかつ)氏も2001年に出版した『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実』の中で暴露しています。最終的には自衛隊と三島は決裂し、楯の会5名での挙行となりました。楯の会会員は100名以上いましたが、他の会員にも全く知らされませんでした。

結果的に自決したのは三島由紀夫と、楯の会学生長の森田必勝(まさかつ)の2名だけです。森田は若干25歳での自決となりました。もし三島だけが死んでいれば、事件は文学者の派手な自殺として印象付けられたでしょうが、森田が同道したことで、その政治性が強調される結果となりました。

それにしても、なぜ二人は死ななければならなかったのか。現代を生きる私たちには容易に理解し辛いものがあると思います。三島は高名な作家として世間に対する影響力があったわけですし、石原慎太郎のように政治家になる道もありました。森田などは前途洋々たる若者で、しかも早稲田大学といういわばエリート大学の学生でした。事件に参加した残り3名の楯の会会員も、未来のある若者でした。

にも関わらず、なぜ事件を起こし、二人は死を選んだのか。それは、当時の時代背景を知る必要があります。わが国は第二次世界大戦(大東亜戦争)において米国を中心とする連合国に敗れ、連合国軍の占領を受けます。1951年(敗戦の6年後)、講和条約により形式上は主権を回復しますが、安保条約に基づき米軍は駐留を継続します。そんな中、米ソの対立が激化し、世界を二分する冷戦状態となりました。

冷戦というのは直接戦闘がない中で、情報戦などによる闘争が激しくなっていく状態をいいます。日米安保条約に反対する60年安保闘争、70年安保闘争などは、ソ連の支援を受けており、いわば間接侵略と呼ぶべき実態がありました。西側諸国の多くで共産主義者が労働運動などを通じて政治活動を展開しており、もし米ソで戦争が勃発すれば内部からソ連を支援するであろうことも明らかでした。

もし米ソ戦争の過程でわが国がソ連に占領されればどうなるでしょうか。占領されないまでも、国内の共産主義勢力がソ連の支援を受けて国民を煽動し、政府機能が停止し、革命状態になる可能性は充分ありました。そうなれば、天皇陛下を中心とする日本の国柄も危機に陥ります。そのことを日本の良識派は憂えていたのです。

三島由紀夫と一部自衛官は、むしろその危機に乗じて、治安維持を名目として自衛隊を動かし、反革命、すなわち憲法改正クーデターを起こすことを構想しました。しかし結果的には彼らが予想した以上に反安保闘争は盛り上がらず、自衛隊に治安出動の命令が下る可能性は無くなりました。これが三島と自衛隊の決裂に繋がります。

三島が最も恐れたことは、自衛隊が憲法違反の状態のまま固定化されることでした。自衛隊は国防上、米軍の補完勢力でしかありません。国軍を持たない国家に、自主性はありえません。わが国が正式な国軍を持たないということは、永遠に日本らしさを発揮することはできず、その結果いつしか国家そのものが衰退する、と三島は予見したのです。

楯の会事件の目的は二つありました。一つは、当時の日本国民に衝撃を与え、憲法改正への関心を喚起することです。それは国民全体というよりも、保守的な考えに同調する層に行動を促すものであったと思われます。実際、楯の会事件に触発されて「新右翼」と呼ばれる政治潮流が生まれています。それまでの右翼が親米的であったのに対し、新右翼は反米的な主張を展開していきます。

もう一つは、後世の日本人に対し、「日本国憲法に命がけで反対した日本人がいた」という証拠を残すことでした。日本国憲法は占領期間中にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が英語で作成し、国会に制定を強要して成立したものです。本来であれば講和成立後に再度改正させるべきでしたが、親ソ連派が国会に一定数存在する限り、改正が不可能でした。(ソ連は米国の属国である日本が弱小国に留まり続ける方が都合が良いため、日本の護憲派を育てました)

三島だけではなく、学生運動出身の森田が自決したことは、「占領憲法」に反対した日本人が存在したことの有力な証明になります。当時の日本人はすんなり属国状態に留まることを受け入れたのではない、少数でも抵抗した者がいたのだということを、誰も無視できない形で後世に伝える必要があったのです。三島はノーベル文学賞候補にまでなった自己の名声を、最大限に有効活用したと言えます。

最近では、世論調査では国民の半数近くまでもが憲法改正に賛成するようになりました。まだまだ自主憲法への道のりは遠いと言わざるを得ませんが、確実に世の中は変わりつつあります。これは楯の会事件が起きた昭和45年=1970年からは考えられない変化です。楯の会事件は決して過去のものではなく、現代を生きる日本人に、いまなお深く問いかけています。

あなたは困難に対し、自ら行動を起こすのか?それとも大勢に流され、自己保身を続けるのか、と。国際社会において何ら主張できない日本。国民が犯罪集団に誘拐されても救出できない日本。祖父母が冤罪で貶められても反論できない日本。すべて、占領期に押し付けられた憲法を後生大事に戴き、何もしないことの言い訳にしてきた結果なのです。

今後ますます、三島由紀夫と森田必勝が投げかけた問いは、私たちに突きつけられることになるでしょう。あなたはその問いに、どう答えますか?

本山貴春

(もとやま・たかはる)選報日本編集主幹。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会事務局長。福岡大法学部卒(法学士)。CATV会社員を経て、平成23年に福岡市議選へ無所属で立候補するも落選(1,901票)。その際、日本初のネット選挙運動を展開して書類送検され、不起訴=無罪となった。平成29年、PR会社を起業設立。著作『日本独立論:われらはいかにして戦うべきか?』『恋闕のシンギュラリティ』『水戸黄門時空漫遊記』(いずれもAmazon kindle)。

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