映画『シン・ウルトラマン』が描く日本型ヒーロー像

文化
©2022「シン・ウルトラマン」製作委員会 ©円谷プロ
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令和4年5月13日、映画『シン・ウルトラマン』が封切られた。私は公開2日目に観ることができたので、ここにレビューを書きたい。

一言でいうと、面白かった。かなりの力作だと思う。繰り返し観たいと思える作品だし、おそらくまた観るだろう。

本稿はできるだけ簡潔に感想をお伝えしようと思うが、一部にネタバレがあるかも知れないので、予めご容赦願う。

『シン・ゴジラ』との違い

『シン・ウルトラマン』を楽しみにしていた観客の多くは、『シン・ゴジラ』のファンだろう。

『シン・ウルトラマン』の冒頭、『シン・ゴジラ』のタイトルが表示され、それが『シン・ウルトラマン』に切り替わる。それだけで『シン・ゴジラ』ファンのテンションはマックスになる。

実際のところ、『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』のテイスト(というか庵野秀明テイスト)を保持しつつ、より娯楽性の高い作品に仕上がっている。

映画としての『シン・ゴジラ』の優れた点は、特撮モノに収まらない「社会性」にあった。その点、『シン・ウルトラマン』の社会性は『シン・ゴジラ』程ではない。

とはいえ、世界観は継承されている。例えば、『シン・ゴジラ』でも『シン・ウルトラマン』でも、登場人物(政府関係者)の台詞の中で、わが国について「属国」という表現が出てくる。

戦後日本を「属国」と捉えること自体、一種の政治性がある。

しかし、この「属国」という用語について、『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』ではやや意味合いが異なる。前者では「主体性がなく危機対応能力が低い政府当局」を指すのに対し、後者では「常に被支配的立場に安住する人々」を表している。

『シン・ウルトラマン』の作中、日本国は「怪獣対応」を通じて一定の主体性を回復している(つまり戦後体制を脱却している)のだが、結局「外星人(宇宙人)」という新たな上位者が現れれば、あっさりとその軍門に降るのである。

『シン・ゴジラ』が現代日本の葛藤を描くのに対し、『シン・ウルトラマン』は日本人の本質を問うている、と深読みすることも可能だろう。

外星人メフィラスと三島由紀夫『美しい星』

『シン・ウルトラマン』に登場する驚異は怪獣(過威獣)だけではない。新たなる驚異は(ウルトラマンを含む)外星人である。外星人は地球人よりも遥かに高度な文明を有し、地球人を奴隷化(あるいは生物兵器化)する能力すら有する。

そんな外星人の一種である「メフィラス」は、地球人の存続を巡ってウルトラマンと議論を戦わせる。ウルトラマンが感情的に地球人に寄り添うのに対し、メフィラスは理性的に支配を正当化しようとする。

作中におけるメフィラスとウルトラマンの論争は、三島由紀夫の長編小説『美しい星』における主人公(自身を宇宙人と思い込んでいる)と異星人(同じく)による有名な論争を想起させる。

例えば、次のような一節だ。

「実際、人間の奇妙な習性も多々あるけれど、その中のいくつかは是非とも残しておきたく、そんな習性を残すためだけに、全人類を救ってもいいというほど、価値あるものに私には思われる。(中略)われわれ宇宙人の目から見ると、彼らの作ったどんな深刻な悲劇的な作品も、結局人間固有の原理、すなわち笑いの原理から生れて来たように思われる…」
(中略)
「私は何も人間を尊敬しろとは云わない。重要視しろとも云わない。人間の残した文化は、宇宙的に云えばせいぜい三流の代物だったし、その経済の流通機構も原始的なら、政治にいたっては宇宙でも最低の部類だが、それでも、こんな連中を救ってやって恩恵を施しておけば、いつか宇宙の役に立つ日も来ようというものだ」

三島由紀夫『美しい星』(新潮文庫)より

『シン・ウルトラマン』に隠されたテーマとは、「人類(あるいは日本)は存続させるに値するのか?」という問いかけに他ならない。

「日本型ヒーロー」の哀愁

初代ウルトラマンがテレビで放映開始されたのは昭和41年だ。制作の背景には、米国から流入してきた「アメコミ・ヒーロー」に対抗できる日本のヒーローを誕生させる意図があったと思われる。

その造形には、タイの仏像をモデルにしたという説もあるが、真相は定かではない。しかし改めて見てみると、ウルトラマンの表情は仏像に似ている。

ウルトラマンは人類に比べ巨大であり、スペシウム光線などの特殊な攻撃能力を保有している。その特殊能力を活かして怪獣を次々に撃退するわけだが、「アメコミ・ヒーロー」と比べても「完全無欠」とは言い難い。

感情に突き動かされるウルトラマンは、たびたび危機に見舞われる。テレビ放映された初代ウルトラマンは最終的に敗北し、母星へと帰還してしまうのである。

このようなヒーロー像は、悲劇的最期を迎えるヤマトタケルや源義経を想起させる。いかにも日本人は、悲劇的英雄が好きである。そうして見てみると、何やらウルトラマンにも哀愁が漂っているように思えてくる。

結局『シン・ウルトラマン』が描いたものとは?

以上、色々と述べたが、『シン・ウルトラマン』が描きたかったのは『ウルトラマン』だろう。

アニメ『エヴァンゲリオン』シリーズなど傑作を世に送り出し、紫綬褒章を受章した庵野秀明(本作では企画・脚本)らが作家になったきっかけを作ったのが初代ウルトラマンであり、『シン・ウルトラマン』のヒットによって往年のテレビ・シリーズが再評価されつつある。

昭和57年生まれの私にとっても、ウルトラマンは古典的作品であって、その価値を理解していたとは言えない。しかし庵野らの世代にとってウルトラマンは神であり、初代ウルトラマンは神話だったのだ。

次は『シン・仮面ライダー』の公開も決まっている。その後も様々な日本の古典的名作が庵野らによって「復活」されることを期待したい。

本山貴春

(もとやま・たかはる)選報日本編集主幹。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会事務局長。福岡大法学部卒(法学士)。CATV会社員を経て、平成23年に福岡市議選へ無所属で立候補するも落選(1,901票)。その際、日本初のネット選挙運動を展開して書類送検され、不起訴=無罪となった。平成29年、PR会社を起業設立。著作『日本独立論:われらはいかにして戦うべきか?』『恋闕のシンギュラリティ』『水戸黄門時空漫遊記』(いずれもAmazon kindle)。

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