福沢諭吉のエッセンス『中津留別之書』全文を現代語に意訳してみた

人生観
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福沢諭吉が明治維新後、大分中津へ帰郷した際に書いたのが『中津留別之書』だ。この短い文章は、のちの『学問のすすめ』の元になったと言われている。福沢諭吉が啓蒙した思想のエッセンスを、現代語に全文意訳した。

人間は万物の霊長と呼ばれるが、これは単に言葉を話し、あるいは二足歩行し、目や耳がついており、生活することをもってそう呼ぶのではない。

すなわち、天の摂理に従って人徳を高め、人が人であるための知識や見聞を広め、経験を積み、多くの人と交流し、一人の個人として自立を果たし、一家の家計を担ってこそ、初めて万物の霊長と呼ばれるに相応しい存在になるのだ。

自由とは何か

古来より、シナ人でも日本人でも、さほど重視されて来なかったが、人間には「自主」や「自由」を求める性質がある。一口に「自由」と言ってしまえば「わがまま」と区別がつけにくいかも知れないが、決して同じではない。

「自由」とは、他人を邪魔することなく、自分の心のままに事を成し遂げるという意味である。

もし親子、上司と部下、夫婦、友人など、お互いに邪魔する事なく、各々が本来持っている心のままに自由自在に行動し、自分の勝手で他人を束縛せず、各々が自立できたならば、人間は本来正しい性質を持っているのであるから、悪い方向には行かないものなのだ。

もし勘違いして自由の限度を越え、他人に害を及ぼす事で自分の利益を確保しようとする者がいたならば、それは人間社会に害をもたらす存在であるから、天も人も許さないだろう。

その人物が社会的に高い地位にあろうと、社会的弱者であろうと、年長者であろうと、幼かろうと、それらに関わらず軽蔑し、処罰して良い。これほどに、人の自由と独立は大切なものだ。

このことが理解できない限り、人徳も知性も身につかず、家庭は立ち行かず、国家も成り立たず、人類文明も独り立ちできない。個人が独立して家庭が独立し、家庭が独立して国家が独立し、国家が独立して人類社会も独立するであろう。

政治家も役人も、ビジネスマンも農家も、お互いにその自由と独立を邪魔することがあってはならない。

夫婦のあるべき姿とは

人の道の基本は夫婦関係にある。夫婦があって、そのあとに親子があり、兄弟姉妹がある。創造主が人類を生み出したとき、最初に一人の男と一人の女がいた。人類の数千万年の歴史を経ても、男女の割合はそう違わない。

そして、男だから、女だから、どちらが尊くどちらが卑しいということもない。地球の上では、男も女も一人の人間だ。

昔も今も、シナや日本では、一人の男性が多くの女性を愛人とし、女性を家政婦のように扱い、ひどいときには罪人のごとく扱って、恥じることもない。なんと浅ましいことであろうか。

一家の主人が妻を軽んずれば、その子供まで真似して母親を侮り、母の教えを重んじなくなる。子が母の教えを重んじなければ、母親はいてもいないのと同じである。孤児と同じだ。

そもそも男親は外で働き、家庭にいる時間が短いのであるから、女親を差し置いて誰がその子を教育するというのか。情けないと言ったらありゃしない。

孔子の『論語』に、「夫婦別あり」と書かれている。この「別あり」というのは、「分け隔てがあるべき」という意味ではない。夫婦の間は情愛こそあるべきであって、他人のごとく分け隔てがあっては、家庭は成り立たないであろう。

ここでいう「別」とは区別のことであって、この男女は夫婦である、あの男女は夫婦である、というように、二人ずつきちっと区別せよ、という意味なのだ。

しかし、多くの愛人を囲い、本妻に子供を産ませ、愛人にも産ませということになると、異母兄弟、異母姉妹の関係になってしまう。これでは夫婦の区別があるとは言えない。

男が複数の妻を持って良いのであれば、女も複数の夫を持って良いことになるではないか。試しに聞くが、世の中の男性の妻が別の男性を夫として愛し、一つの家庭に妻一人、夫二人という事態になったなら、そんな状況に夫は耐えられるのか。

孔子編纂の史書『左伝』に「その室を易(か)う」という記述があるが、これは一時的に妻を交換するという意味である。

孔子様は人々の生活の乱れを嘆いて『春秋』という本を書き、野蛮人がどうの、文明人がどうの、盛んに人を褒めたり貶したりしたものだが、「妻の交換」までは気が回らなかったのか、知らぬ顔をして特に戒めていない。

これは私たちからすると不徹底なことに思われる。もしかすると『論語』の「夫婦別あり」には他の解釈もあり得るのだろうか。専門家の見解を聞きたいところだ。

親子のあるべき関係とは

親孝行すべきというのは、当たり前のことである。一途に親を思い、しっかりと親に尽くすことが大切だ。「赤ん坊の3年間親に抱かれたから、親が死んで3年間は喪に服する」というような慣習は、なんだか計算づくのようで、かえって薄情に思える。

世の中、親不孝者を非難することはあっても、子に愛情を注がない親が非難されることは少ない。たとえ親といえども、「この子は自分の子だ」などと言って所有物のように扱うのは甚だしい勘違いである。

子は天からの授かりものであって、大切に思わないということがあってはならない。

子供が生まれたならば、父母は力を合わせて教育し、子供が10歳になるくらいまでは手元に置いて、威厳と愛情を持って良い方向に導き、きちんと躾をした上で学校に通わせ、一人前の人間に仕上げることが父母の役目であり、世界に果たすべき義務である。

子供が20歳を超えたならば、これを成人とし、本人の考えもあるのだから親がとやかく干渉せず、経済的にも自立させ、好きなところへ行かせ、やりたいことをやらせて良い。

ただし親子関係は生涯変わらず、死んでも変わらないのであるから、子供は親孝行せねばならないし、親は子への愛情を失くしてはならない。前述の「干渉せず」というのは、親子の間であっても自由独立を妨げるべきではないという意味だ。

西洋の書物には「子供が生まれて成人したならば、両親は子に忠告しても、命令してはならない」とある。これは普遍的な格言といって良いだろう。

子供への教育にあたっては、学校での知識教育も大事ではあるが、「習うよりも慣れろ」と言われるように、教える者の行動が重要だ。だから両親の行いが間違っているようではいけない。

口では正しいことを言っていたとしても、その行いが卑劣であったとすれば、子供は言葉よりも行動を真似するようになる。それが両親の行いであれば影響力は絶大であって、そんな親の子供は孤児よりも不幸であると言うべきだろう。

あるいは、父母がいたって真面目で、子供への愛情を持っていても、物事をわきまえず、自分の思うように子供の人生を支配しようとする者がいる。これは一見悪くないように見えるが、実際には子供を愛しながら、その愛の根源を知らないと言うべきだろう。

そんなことでは子供は親の操り人形として不幸に陥ることになり、そんな親は天の理、人の道に背く罪人となってしまう。人の親であれば、子供の身体の病気を心配しないことがないように、目に見えない心の健康こそ心配すべきであろう。これは盲目的な女性の愛か、あるいは動物的な愛と呼んでも良い。

政治はなぜ必要か

一人一人顔が違うように、人の心も違うものだ。

文明社会の進展に伴い、悪人も増えてくるものであって、国民一人一人の力では身の安全を保つことは難しい。だからこそ国民は代表者を立て、その代表者が話し合ってルールを決めることで初めて何が正しく何が悪いことなのか明確になった。

この、国民の代表者が政府であり、政府の長が国家元首であり、政府で働く人々を官僚と呼ぶ。国家の安全を保ち、他国から攻撃されないようにするためには、無くてはならないものである。

世の中には多くの職業があるものだが、国家の政治を扱うことほど難しい仕事はない。難しい仕事をする者ほど多くの報酬を得るというのが世の道理なのだから、政治の恩恵を受けている者は、政治家や官僚の報酬が高いからといって妬むものではない。

もし政治行政が正しく行われるのであれば、その報酬は安いものだ。その時は妬むどころか、尊敬すべきであろう。ただし、政治家や官僚も「働かざる者食うべからず」を忘れず、自分が報酬に見合っただけの仕事をできているか常に省みなければならない。

まずは学問をせよ

以上は人間社会の概要だ。詳しく説明すると2、3ページには収まらないので、必ず書物を読んで学んで欲しい。書物は、国内のものに限らず、シナの書物、インドの書物、西洋諸国の書物も必ず読むように。

最近では「国学」「漢学」「洋学」などと言って専門の学派を名乗って、互いに誹謗中傷しているが、もっての外である。学問というのは紙に書かれた文字を読むことであって、難しいことではない。

どの専門学派が良いか悪いかなどということは、一旦学んでから議論すれば良いことで、その前にあれこれ言うことは時間の無駄だ。

人間の知能があれば、日本語、シナ語、英語やフランス語など、たった2・3ヶ国語を習得するのに大した労力はかからない。言語も知らずに他の分野を中傷するなどということは恥ずべきことだ。

学問をするにあたっては、おのれの派閥の損得を考えるのでは無く、わが国家の利害こそを考えるべきであろう。

近年、(開国によって)外国との貿易が行われるようになり、日本にやってきた外国人の中には邪な考えによって、わが国を貧しくし、わが国の国民を愚かにし、それによって利益を得ようとする者もいる。

であるならば、国学や漢学にばかりこだわり、古い風習を重視して新しい文化を受け入れず、世界情勢を知ろうともせず、自分から貧しく愚かであろうとするような動きは、外国人を喜ばせることになるではないか。敵の術中に嵌っているのだ。

そのような外国人が日本人に学ばせたくないのは、西洋の学問だけである。

世界中の書物を読んで世界情勢を知り、国際法を学んで世界の政治を議論し、国内においては精神教育を施して国民の自立心を高め、外国に対しては国際法に基づいて国家主権を確立し、そこで初めて真の「偉大なる日本国」と言えるのだ。

これこそが、私が強く「専門分野にこだわらず、とにかく洋学を学ぶことが急務である」と主張してきた理由だ。

できることならば、私の故郷である大分中津の人々も、今すぐ目を見開いて、まずは洋学を学び、自分で稼いで自分で食べ、他人を邪魔することなく自己実現を達成し、道徳心を身につけ、他人を妬むことなく、家庭を守り、世の中を豊かにすることの重要性を理解して欲しい。

故郷を忘れる者はおらず、友人知人の幸福を願わない者もいない。歩み出すべき日は近い。簡単に西洋書の概略を書いたが、あとは皆さんで考えて欲しい。

明治3年11月27日 中津留主居町の旧宅にて

原文はこちら→青空文庫

意訳・構成 選報日本

福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)/天保5(1835)年〜明治34(1901)年。蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59(1984)年から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。

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