物部氏の“秘法”伝える「神道石切教」二千年の伝統を継承

宗教
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大阪府と奈良県の境目にある生駒山地。その大阪側の麓に、約二千年の歴史を誇る「石切劔箭いしきりつるぎや神社」が鎮座している。

私が平日の昼間に訪れてみると、浄まった静かな境内に参拝者の足音が響き渡っていた。外観上は普通の神社だが、老若男女問わず多くの人が参拝しているのが目立つ。

しかし、実は石切劔箭神社は多くの神社が所属している神社本庁ではなく「神道石切教」という独自の教団の包括下にある。それでは、神道石切教とは一体どのような宗教なのであろうか?

ネット上では神道石切教を「新興宗教」とするブログもあったが、石切劔箭神社を参拝するとそれが明らかに事実ではないことが判る。文化庁の発行している『宗教年鑑』でも「教派神道」(新興宗教)ではなく「神社神道」に分類されている。

今回、私は石切劔箭神社宮司の木積こづみ康弘やすひろ氏にインタビューをさせていただいた。本稿では宮司の話を基に神道石切教の歴史と本当の姿をお伝えする。

「神道石切教」設立の“謎”

石切劔箭神社は大阪や奈良では知らない人は少ないであろう神社だ。最寄り駅の石切駅には近鉄急行も停車するし、近隣に「新石切駅」という名前の駅があることからも多くの参拝者が電車に乗って来ていることをうかがわせる。

歴史的にも平安時代の法令集である『延喜式』に名前が載っている「式内社」の一つであり、古代から朝廷の崇敬を受けていた由緒正しい神社である。

一方、『宗教年鑑』によると9割以上の神社が神社本庁の包括下にあるが、石切劔箭神社は数%の例外に属する。それも神社本庁とは異なる独自の神社神道の宗教法人を作っている点が大きな特徴だ。

『宗教年鑑』令和4年版によると文部科学大臣所轄の(つまり、全国規模で活動している)神社神道の包括宗教法人は15存在するが、その中で実際に神社を包括しているのは10教団で、神社本庁と昨年解散した誠心明生会を除くと8教団しかない。

『宗教年鑑』によると神社神道の教団は「神社本庁と同様、神社が結集して成立したもの」と「神社の崇敬者講などを中心として成立したもの」に大別できるという。しかし『宗教年鑑』はこの両者の例をそれぞれ挙げているが、神道石切教はそのいずれの例にも含まれていない。

崇敬者の組織である講社を宗教法人にすること自体は珍しくない。近年神社本庁を離脱し話題になった金刀比羅宮の講社は以前から「金刀比羅本教」という宗教法人となっている。しかし金刀比羅本教は教派神道であり、金刀比羅宮自体は神社本庁離脱後も金刀比羅本教に所属せず単立の神社となっている。

つまり、①神道石切教は教派神道ではなく神社神道であること、②石切劔箭神社本体も神道石切教に所属していること、が金刀比羅宮等の類例と大きく異なるのだ。

このことを木積宮司に訊くと次のような回答であった。

「どうして神社本庁に所属せず、また単立神社にもならずに独自の教団を作ったのか、その理由については、昭和21年末の教団設立から約3年後の昭和24年に立教者である初代管長が亡くなった上に、昭和45年の境内の建物の火災により関連する文書が焼失したため、推測はできても断定することはできません。」

物部氏・穂積氏の神社

そこで神道石切教が出来た経緯について状況証拠的なものを聞かせていただくことにした。

「あくまでも推測ですが、饒速日尊にぎはやひのみこと可美真手命うましまでのみことをお祀りしていることが関係しているのかもしれません。饒速日尊は天照大御神の孫で生駒いこまに天降られた神様で、その御子の可美真手命が父である饒速日尊を祀ったのが石切劔箭神社の創建の起源と伝えられています。この二柱の神は記紀に記載はあるものの、記載している量は少なく色々な説があります。そして饒速日尊は長髄彦ながすねひこの妹である御炊屋媛みかしきやひめを妃としていました。」

饒速日尊と可美真手命は物部もののべ氏の祖先神である。物部氏の末裔の氏族の一つが穂積ほづみ氏で、石切劔箭神社の社家の木積こづみ家も穂積氏の系統だ。

「戦前は長髄彦というと朝敵の代表格のようなものですから、先代の宮司も子供の頃は小学校の先生に『こいつの神社は朝敵を祀っている神社だ』と言われ、同級生からいじめられたこともあったようです。またその前の江戸時代は幕府の寺請制度の下、仏教の寺院が強い時代でしたから、神社を守っていくことに当時の社家は苦労があったようです。終戦直後GHQにより再び体制が変わり神社本庁が出来た時、それがどういうものになるのかわからない、ということもあったのかもしれません。」

江戸時代は神社が仏教寺院の下位に置かれ、戦前は饒速日尊のイメージがあまり良くなかった。そうした中で独自の伝統と祭祀とを継承してきた石切劔箭神社が、戦後独立した宗教法人となったのは自然な流れかもしれない。

ちなみに、饒速日尊は神武天皇が日本を建国する前に降臨されている。そのため石切劔箭神社には日本の歴史の長さに匹敵する歴史を有することになる。

私は神武天皇実在説論者なので、石切劔箭神社にも約二千年の歴史があると考えているが、その点木積宮司は謙虚であった。

「客観的に言えるのは、平安時代に正史である『日本三代実録』に記載があるのが一番古い例です。」

神社の伝承を押し付けない姿勢からは誠実さを感じる。とは言え、『日本三代実録』の当該記事は貞観7年(西暦865年、皇暦1525年)の記事であり、しかもこの記事は石切劔箭神社の神階を昇格させる記事であるからそれ以前から神階を授与されるほどの神社であったという事だ。

つまり石切劔箭神社には客観的な史料だけを見ても千年を軽く超える歴史があることになる。

さて、神道石切教が出来た経緯に話を戻すと、木積宮司によると推測される理由にはもう一つあるという。

「もう一つ考えられるのが、石切劔箭神社の社家に伝わる加持かじ祈禱きとうです。判りやすく表現するために加持祈禱と言うようになったようですが、仏教の加持とは異なる物部氏に伝わる神道の祈禱です。」

そう、神道石切教には物部氏の「禁厭きんようの秘法」が伝わっているのである。

社家に伝わる物部氏の“禁厭の秘法”

一般に加持祈禱と言うと仏教の儀式だ。「物部氏の祈禱」と聞いて私は確認した。

「神仏習合の影響ではない、という事ですか?」

すると木積宮司は答えた。

「はい。物部氏の時代から社家に受け継がれてきた祈禱と伝わっています。」

石切劔箭神社は「でんぼの神様」とも呼ばれ、この「でんぼ」は「伝法」が訛ったものだという。ここで言う「伝法」とは、木積家に伝わる物部氏の「禁厭の秘法」のことだ。

禁厭、つまり呪術は前近代においては一般的であった。だが、近代化に伴い風向きが変わる。

特に明治維新後、我が国の政府は「神社非宗教論」を採用し、神社による宗教行事全般に否定的な態度を取った。

しかし、石切劔箭神社はそのような中でも古代からの伝統を守ろうとしたのだという。木積宮司は言う。

「戦前、神社で加持祈禱を行うことは怪しからんと、裁判にまでなったことがありました。しかし神道でも吉田神道には『神道加持』というのが存在します。当時の宮司は、まだ電車も整備されていない時代でしたが、朝早くから歩いて吉田神社まで通って『神道加持』を習いに行き、そのことによって神社で加持を行うことを認めて貰おうとしましたが、結局『加持は神社とは切り離して社家で行う様に』ということになりました。」

吉田神道は室町時代に出来た学派神道の一つだ。それまでの神道の教義は天台宗系の山王神道や真言宗系の両部神道、日蓮宗系の法華神道というように仏教の教義を基に解釈されたものであったが、吉田神道は神道独自の教義を体系化したことで知られる。

神社界に影響力のある吉田神道の教義にも適うとなれば、石切劔箭神社の加持祈禱も公認されておかしくはない。吉田神社は京都の洛北に存在し大阪からはかなり離れているのだが、そこまで通った当時の宮司からは何としてでも石切劔箭神社の伝統を守りたいという強い意志を感じる。

しかし、それでも神社で加持祈禱を行うことは認められなかった。木積宮司は言う。

「戦後になって自由になったので石切劔箭神社で加持祈禱を行う様に戻りました。ただ終戦直後の段階でそれについて神社本庁側がどう判断するか判らないところもあったのが、独自の教団を作った理由の一つかもしれないです。」

神社本庁は今では傘下の神社による宗教的な活動を禁止してはいないが、ただ一時期は神社本庁として「神社非宗教論」に基づく立法措置を求めていたこともあり、独自の加持祈禱を行う石切劔箭神社は神社本庁傘下の多くの神社とは異なる面があると言える。

お話を伺う限りだと、恐らく神道石切教の立教は石切劔箭神社の約二千年の伝統を継承するために当時の宮司が最善の方法を模索した結果であろうと考えられる。

穂積氏・木積家の歴史

ここまでの話でも触れてきたが、石切劔箭神社の社家である木積家は物部氏の末裔であり、いわば祭神の子孫でもある。

ここで社家である木積家の歴史について若干説明させていただきたい。

物部氏の由来については諸説あり、『古事記』『日本書紀』には饒速日尊の出自は詳しくないが、一般に瓊瓊杵尊の兄とされる(これも諸説あるが)火明命ほあかりのみことと同一視される。少なくとも古代からその様な系譜が存在していたことは事実である。

饒速日尊の息子である可美真手命が石切劔箭神社の創始者であり、また可美真手命は多くの物部氏系の氏族の祖先である。物部氏は後に様々な氏族に分かれるが、その一つが孝元天皇の皇后(開化天皇の母、崇神天皇の祖母)の兄である欝色雄命うつしこおのみこと(内色許男命)を始祖とする穂積氏である。

また『日本書紀』によると穂積氏の遠祖である大水口宿禰おおみなくちのすくねが崇神天皇に大物主おおものぬし神と倭大国魂神やまとのおおくにたまのかみとを祀るよう上奏した人物の一人となっている。この両神はそれぞれ出雲系の神と大和土着の神であり、神武天皇以前から河内・大和の地へ来ていた物部氏ならではの提案であると言え、また物部氏・穂積氏が当初から祭祀を重んじる氏族であったことも示している。

その後、律令国家成立後の穂積氏は多くの官僚を輩出している。一般に日本人の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏のいずれかであるとされ、それ以外の氏族を名乗る者は少ないと言われているが、実は穂積氏を名乗る者は決して少なくない。

例えば江戸時代に編纂された『寛政重脩ちょうしゅう諸家譜』には、当主が穂積氏である家が65家も記されている。また穂積氏の子孫であるが藤原や平を本姓としている者も載っている。

但し、中世以降はそもそも「藤原」や「源」「平」「橘」「穂積」と言った本姓(氏族名、clan name)を使うことは朝廷の文書等に限られており、多くの人が独自に家の称号である苗字や名字(家名、family name)を名乗るようになった。我が国では氏と家とが奈良時代頃から区別されており、従って氏を表す本姓と家を表す名字とは全く違うことも少なくない、というよりも、それが普通である。

しかしながら、石切劔箭神社の社家は「木積」を名字としており本姓の「穂積」と似ている。これは珍しい例で『寛政重脩諸家譜』にも穂積氏で木積を苗字としている家は載っていない。これは穂積氏の継承者であることを強調していると言うことも出来る。

もっとも天文5年(西暦1536年、皇暦2196年)に石切劔箭神社の由来を纏めた当時の宮司(無論、木積家の祖先)は「藤原行春」であると石切劔箭神社の公式サイトに記されている。そこで私は木積宮司に質問した。

「木積家は藤原姓であったこともあるのでしょうか?」

「あります。応仁の乱の時に藤原冬房卿が石切に来られて、その際に藤原姓を名乗ることと下り藤の家紋を使うことを認められました。また藤原冬房卿の娘が木積家に嫁ぎました。そこで木積家の一部は藤原姓を名乗るようになりました。」

少し捕捉で説明すると、藤原冬房卿とは万里小路冬房のこと。先述の通り朝廷等の公式な場では「本姓+実名」で名乗るのが通常であり、特に公家は本来名字を官名等の通称の上に付けるもので(この例では「万里小路宰相」等)、歴史的には「藤原冬房卿」と呼ぶのが正しい。

(通称は官位の昇降や場合によっては本人の気紛れでも変化するので、講学上は「名字+実名」で「万里小路冬房」という風に呼ぶが、同時代においてはこうした例は一般的ではない。)

既に述べた通り、穂積氏の子孫であっても平姓や藤原姓を名乗ることは中近世にしばしば見られた現象だ。

しかし、現在の木積家の宮司は藤原姓を名乗ってはいない。このことについて木積宮司はこう説明された。

「書物が焼亡したこともあり詳しいことは判りませんが、一説には豊臣秀吉が関白であった時に藤原姓を名乗ることを憚った、という風に言われています。しかし、この説は怪しいと思います。というのも豊臣秀吉の時代以降も藤原姓を名乗る人も中にはいたようなのです。」

豊臣秀吉の時代に藤原姓を名乗ることを憚ったという説はインターネット上にも見られるが、それに反する史料もあるのだという。

特に重要な証拠が祖先を祀る霊璽だ。霊璽は故人の依り代となるものであり、いわば位牌の神道版だ。

「木積家の霊璽には『藤原』と記しているものや『木積』と記しているもの、さらにはその両方を記しているものとが混在しており、その区別は必ずしも明確ではありません。」

このように木積家の歴史にはまだ解明されていない点も少なくないが、それだけ歴史の深い家であるという証左でもある。

近鉄奈良線開通と神道石切教

神道石切教は石切劔箭神社の崇敬会を前身としている。崇敬者による講社のような組織自体は中近世から存在したはずであるが、史料の焼亡もあり具体的なことは明らかになっていないという。

明治維新後の石切劔箭神社の社格は「村社」とされている。ただ、明治の頃から既に新聞において石切劔箭神社の賑わいが記されていたと言い、その頃から氏子区域外にも少なくない崇敬者がいたものと推察される。

そのような中、崇敬者がさらに増えたきっかけとして木積宮司が指摘するのが近鉄奈良線の開通だ。

「先代の宮司からは、元々石切劔箭神社は村の氏神という性格が強かったものの、大正3年の大阪電気軌道(近鉄の前身)の開通がきっかけで遠くからの参拝客が増えたという風に聞いています。それ以前は神社の前に宿屋があるなど、遠方からの参拝客は泊りがけである必要がありました。」

大正3年(西暦1914年、皇暦2574年)に大阪電気軌道が今の近鉄奈良線とほぼ同じ路線を開通させ、当初から石切も停車駅であった。そしてその10年後の大正13年(西暦1924年、皇暦2584年)に石切劔箭神社の崇敬会が発足する。

こうした崇敬会の発足も全国の神社の中で早い方に属する。鉄道開通は崇敬者が増えるきっかけになったと推測できるが、恐らくそれ以前から少なくない崇敬者がいたからこそ、鉄道も通るようになったのだろう。

神道石切教の前身団体が発足したきっかけと言うことも出来る近鉄奈良線は、今でも石切劔箭神社と繋がりがある。

近鉄の石切駅と石切劔箭神社の間には「石切参道商店街」が存在する。この三者はいわばセットの観光スポットとなっている。

「日本の國體はすなわち天皇と御皇室の御存在」

ここまで神道石切教の特色を中心に説明してきたが、一方で神道石切教は神社本庁とも良好な関係であり、またその形態も教派神道とは大きく異なり神社神道の教団であると言える。

神道石切教の信者は石切劔箭神社等の崇敬者によって構成されており、神道石切教は神社と一体だ。その点は神社とは別に宣教活動を行っている教派神道とは大きく異なる。

また、一部の教派神道の教団は他の宗教との二重信仰を禁じているが、神道石切教は信者が他の宗教を信仰することも禁じていない。

神道石切教の教義も、例えば神社本庁の「敬神生活の綱領」などと同様、長い歴史の中で日本人の中に自然と培われてきた神観念や価値観に基づくものだと言い、この点も神社神道の教団であることを示していると言える。

神社本庁との関係であるが、かつては独自の神職養成を行っていたものの、いまでは神社本庁の神職資格を持つものを採用していることもあり、神社本庁との関係は深い。また戦前から大阪府の他の神社(当然その多くは今神社本庁の包括下にある)と良好な関係であり、大阪の神社界関係者が設立し現在も大阪府神社庁と密接な関係にある浪速学院の前身である旧制浪速中学校の初代後援会長は石切劔箭神社の当時の宮司であった。

また神道石切教は神社本庁が本宗とする伊勢神宮へも毎年集団参拝している(伊勢神宮の正式名称は「神宮」であり、恐らくそれも踏まえて宮司は「伊勢の神宮」と表現されていたが、本記事では通称の「伊勢神宮」と表記する)。

木積宮司は語る。

「日本の國體こくたいはすなわち万世一系の天皇と御皇室の御存在であると考えていますので、御皇室の弥栄いやさかをこれまでも、これからも祈り続けて参ります。また伊勢の神宮の天照大御神は当社の御祭神である饒速日尊の直系の御祖神でもあるので、その意味でも神宮を崇敬申し上げております。微力ですが神宮の式年遷宮にも協力申し上げ、大阪府神社庁から神宮大麻をお受けして崇敬者にも石切劔箭神社の神札と一緒に神宮大麻じんぐうたいままつるよう教化しています。」

神宮大麻とは「天照皇大神宮」と記された伊勢神宮の御札のことである。神社本庁以外の神社神道の教団の中には“独自”の神宮大麻なるものを頒布しているところもあると聞くが、神道石切教は伊勢神宮が神社本庁と各都道府県の神社庁を通じて頒布はんぷしている公式な神宮大麻を取り扱っている。

木積宮司の言葉からは日本への愛情や伝統を継承する強い意志を感じたが、神道石切教は政治的に中立であるという。木積宮司はこう語った。

「神社にとって最も重要なことは、その祭祀を後世まで伝えてゆくことです。政治活動をすると時流に左右されてしまうかも知れません。長い歴史を通じて、移り変わる時勢や人心の中で祭祀の継承に苦慮を重ねてきた社家としての経験からでしょう、先代宮司からも常に政治活動からは一定の距離を置くよう教えられました。」

日野智貴

(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。日本SRGM連盟代表、日本アニマルライツ連盟理事。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。

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