ついにテレビ地上波でも放映された『シン・ゴジラ』。ここで改めて、この映画が投げかけた戦後日本の課題について一考したい。
劇中で、ゴジラに対する多国籍軍(実質的にはアメリカ軍)による核攻撃を巡って、政府高官が交わす象徴的な議論がある。
「戦後日本は常にかの国の属国だ」
「戦後は続くよ、どこまでも。だから諦めるんですか」
アメリカはゴジラを殲滅するために、わが国の首都を熱核攻撃しようとする。熱核とは、核融合エネルギーを利用した水素爆弾(水爆)のことだ。水爆は通常の核攻撃よりもはるかに大きな出力があり、これまで実戦で使用されたことはない。
上記のシーンの直後、スクリーンには広島と長崎に原爆投下された直後の写真が一瞬写し出される。ゴジラ殲滅のためとはいえ、逃げ遅れた都民もいる東京に対して「史上3度目の核攻撃」がなされることになったわけだ。
巨大不明生物の出現に対し、劇中の日本政府の対策は後手後手に回る。挙句、総理大臣以下、内閣の主要閣僚までも死亡。自衛隊の総力を挙げた迎撃も不発に終わる。
日本政府は諦めたわけではなかったが、被害の世界的拡大を恐れた「国際社会」は日本政府に核攻撃の容認を迫る。その中で、政府高官の中から「米国は横暴だ」「わが国は所詮属国だ」などという発言が飛び出す。
実際に似たようなことが、東日本大震災においても生起した。「想定外」「千年に一度」の大災害を前に、原発事故も重なり、政府はパニックに陥る。そんな中、米軍は速やかに仙台空港を復旧するなど、積極的に動いた。
実は日本国憲法は、政府機能が停止するような緊急事態を想定していない。最大の緊急事態は「戦争」だが、憲法9条が軍隊保持を禁止していることからもわかるように、日本国は「戦争」になると憲法を停止せざるを得ない。
憲法を停止すると、憲法以上の存在が姿を現す。戦後日本にとって、それは米軍なのだ。だからこそ、危機に際して日本人は米国の存在を強く意識せざるを得ない。
しかしそれでも、劇中の日本人は懸命に戦う。二度目のゴジラ襲来に対して首都侵攻を阻止する「タバ作戦」で陸上自衛隊はありったけの火力を投入。航空自衛隊もF2戦闘機で攻撃する。
さらに、ゴジラを内部から「凍結」させるために官民挙げて「ヤシオリ作戦」を実行。この作戦のために多国籍軍の熱核攻撃を遅らせる外交交渉も行なっている。「属国」でも、できることはあるし、やるべきことはあるのだ。
特に「ヤシオリ作戦」は、福島原子力災害における自衛隊による冷却作戦を想起させるものだった。米軍は、あのような被爆死の可能性が高い作戦を、自分たちの兵士にやらせないだろう。
そして劇中では明確に描かれていないが、「タバ作戦」や「ヤシオリ作戦」では自衛官などの作戦従事者に死者が出た可能性がある。それも、戦後初の「防衛出動」における戦闘中の死亡であるから、まぎれもない「戦死」だ。
ここからは想像するしかないのだが、果たして戦死者たちは靖国神社に祀られただろうか?
現実に、これまで戦後日本において戦闘はなく、自衛隊に公式な戦死者は出ていない。訓練中の事故などによって殉職した自衛官への慰霊施設はあるが、戦死者についての取り扱いは決まっていない。
靖国神社は明治になって、国家のために戦って亡くなった英霊を顕彰する施設として位置付けられた。確かに神社であるが、わが国が近代的な「国民国家」として成立するために必要な戦争祈念施設(war memorial)だった。
国民国家は、共同体を自衛するために、国民自ら戦わねばならない。戦う者(軍人)は死ぬ危険性が高い。しかし誰かがその役割を果たさねばならないのだから、共同体は軍人、特に戦死者に最高の待遇を与える必要がある。
わが国において戦死者に最高の待遇を与える方法は、靖国神社に祀ることしかない。しかし現実には、それを阻止するために裁判にまで訴えようとする政治勢力も存在する。(実際に、護国神社に殉職自衛官を合祀したことの違憲性を問う裁判があった)
今後、緊迫する北朝鮮情勢を巡って戦闘が生じ、自衛官に戦後初の戦死者が出る可能性も皆無ではない。その時、国民は戦死者に最高の待遇を与えることができるだろうか?遺族の生活を保証するだけではなく、戦死者を英霊として顕彰できるだろうか?
決して夢物語ではない。現実の、喫緊の課題だ。
本山貴春(もとやま・たかはる)独立社PR,LLC代表。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会副代表。福岡市議選で日本初のネット選挙を敢行して話題になる。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。