「矛盾」。中国の故事に由来し、物事の道理が通らないことの例えである。ある商人が、どんな盾も突き通すことができる矛と、どんな矛も突き通すことができない盾を自慢していた。しかし、ある人から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と質問され、二の句が接げなかった、という話である。
いまでも中学校国語の教科書に上記の故事が掲載されている。この「矛盾」という言葉に、我々は日々、悩み、葛藤する。
例えば、私が矛盾を感じている出来事の一つが、日本の核政策である。世界史上唯一の核被爆国でありながら、アメリカの「核の傘下」にあるゆえに(被爆国として先頭に立って推進してもよい筈の)核兵器禁止条約にも、署名しない方針を示してきた。
先日、某カトリックの私学女子校が毎年催している行事の中で、一人の女子高校生の話を聞く機会があった。
その生徒は「高校生平和大使」※のメンバーとしての活動を通じて「日本が享受している平和の有難さが身に染みて分かった」と話してくれた。
※高校生平和大使:1998年5月、インド、パキスタンが相次いで核実験を行ったことに危機感を募らせた数十の平和団体から、広島・長崎の声を世界に届けるため国連に派遣されることになった高校生たち。
そこで私は女子生徒に対し、「ところでキリスト教は世界平和に対し、どのように貢献していると思うか?アメリカ合衆国もキリスト教を奉ずる国家でありながら、聖書と『矛盾』するような行動を採っているが、どのように感じているか?」という質問を投げかけた。
彼女の回答は次のような内容だった。
「高校生平和大使として活動する中で、聖書から学んだことは他のメンバーと接する上で役立ちました。しかし平和については、キリスト教が貢献できているかというと、必ずしもそうではない現実を認めなければいけません」
いま思うと、生徒に対し非常に天邪鬼な問いをしてしまったと若干、反省している。しかし、私は上記の議論は一指導者、一国家という枠を超えた、より根源的なものではないかと思うのである。
その場には、神父、修道女や学校関係者の方もおられた。私はできれば、そのような方々とも本質的な議論を交わしたかったが、会の趣旨にそぐわないので遠慮した。
そもそも、「平和」とはどのような状態を指して言うのだろうか。手元の辞書(新明解国語辞典)を引くと、
(1)心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。「例:家庭の平和」
(2)戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活出来る状態。「例:平和を築く」
との記載がある。
私は改めてこの字義を見て、今の日本は果たして平和と言えるのだろうか、との疑念を強くした。
個人や家庭において「心配・もめごと」が絶えることはなく、日々「家庭の平和」は脅かされている。「戦争や災害」に至っては、北朝鮮ミサイル危機、尖閣諸島での日中衝突、頻発する地震災害など、息つく暇もない。
まさに日本には、内憂外患が山積している。
そして私は事あるごとに、「北朝鮮による日本人拉致事件」を思い出す。拉致被害者が救出されず、二度と国民が拉致されないという保証のない日本が、平和であるとは言えない筈である。
ところで、平成27年9月30日に平和安全法制(安保法制)※が成立した。
※「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(通称、平和安全法制整備法)」
※「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(通称、国際平和支援法)」
この「平和安全法制」に関し、一部野党などからは「戦争法」という(実際の法律名とは正反対の)批判も聞かれた。
キリスト教に限らず、確かに「祈り」は非常に重要な要素である。しかし祈るだけでは、平和な世界は訪れない。世界史を振り返ってみても、平和を勝ち取るために、幾多の血が流されてきた。戦後日本が「一応」表面的な平和を保ってこられたのも、先の大戦で多大な犠牲があればこそだ。
くだんの女子生徒に、このような話をすれば恐らく「矛盾」の念を抱くのではないかと思う。しかし、この世は多くの事象が「矛盾」という、いわば相反する要素で成り立っているという事実を覚悟することが必要だ。