今年の福岡憂国忌にて実際に檄文を奉読するにあたり、私はどう詠むべきであろうか。
実践躬行、行動こそが男の言葉である。そして、自らの言葉を自らが裏切れば、それは生きながらの死であろう。私が檄文について語った言葉が、檄文奉読に直結しなければならないと思っている。
これから私が書くことは、自分なりの檄文の詠み方である。無論、これが正解という心算は毛頭ない。あくまでも自分の構想である。それは、楽譜を見ての演奏者の演奏解釈であり、台本を見ての俳優の役作りである。
英雄的で、剛毅な勁さを
各段落の詠み方に入る前に、全体を貫く声の質について述べる。
男性的な低い声の調子で詠みたいのだが、生憎と私の声は高い。合唱に加わるときは常にテノールパートである。
しかし、これを声を作って低く抑えれば、発声が不明瞭となり、不自然な力を加えた分、声の動きが鈍重となる。そして、その無理は最終段落に来て一気に馬脚を顕わす。
最終段落は、「序破急」の急の更に最後、残る力の全てを振り絞って声を出さねばならない。声を作っている余裕などあろう筈はない。
それまで低く抑えていたものが、最後に突然カン高くなれば、それこそ「オカマのヒステリー」である。
武人として死にたいと三島は望んだ。そこで、私は高い声のまま、武人らしい英雄的で、剛毅な勁さを表出できるものとして、ヘルデンテノールをイメージし詠むことにする。
ワーグナーが作り出した”ヘルデンテノール”
ここで、城所孝吉氏(音楽評論家・ベルリン在住)が、アンドレアス・シャーガーというテノールを紹介する際、ヘルデンテノールについても説明しているので、少し引用する。
ワーグナー《ジークフリート》の題名役は、ヘルデンテノールと呼ばれる歌い手によって歌われる。ヘルデンとは、ドイツ語のHeld(英雄)から来る言葉で、端的には「英雄的でドラマティックなテノール」の意である。実はこの区分自体、ワーグナー・オペラの登場によって生まれた。それまでにも劇的なテノール役は存在したが、《フィデリオ》のフロレスタンや《ノルマ》のポリオーネは、せいぜい30~50人のオケで歌われたに過ぎない。対して100人以上の大オーケストラを突き抜けて歌う英雄役は、ワーグナーが作り出した声種なのである。/その代表が、ジークフリート、トリスタン、タンホイザー、ジークムント、パルジファル、ローエングリン、ヴァルター等。イメージとしては、金髪碧眼で逞しい美丈夫といったところである。
「英雄的でドラマティック」「100人以上の大オーケストラを突き抜けて歌う英雄」、如何であろうか、三島は自ら製作した映画「憂国」において、その音楽にワーグナーのトリスタンとイゾルデを全面的に使用した。
私は「逞しい美丈夫」からは程遠いが、三島は美丈夫を愛でた。
檄文を書き上げる際、三島がこれをどのような声で詠むことを想定していたか、今となっては想像する他はないが、ヘルデンテノール的声質は、三島にも是認していただけるのではないかと思う。
ただし、これでも檄文を詠み上げるには、私にとっては、まだ足りないのである。
激情と、慟哭と、優しさを
最初に檄文に接すれば、その激しい文面に先ずは気圧される。三島の最後を知っているだけに尚更のことである。故に、詠み方は激情的なものとなる。それが、三島の意を汲んだ詠み方だと思うからである。
しかし、激情だけで押し切って良いものであろうか。
私は、檄文を繰り返し詠む中で、この文の中に漂う哀しみの情、もののあはれとでも言うべきもの、を感じるようになってきた。
多分、このことについては、以前より、心有る方は感じていらっしゃった筈であり、自らの不明を恥ずるより他はないのだが、この、あたかも通奏低音のように鳴り続けている哀感も、声の要素に滲ませねばならないと私は考えるようになった。
思い致して欲しい、愛する者を、誰よりも愛深きが故に面罵し、永久の別れを告げなければならない人の心を。
「敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。」
こう三島は冒頭段落で宣言した。
そして、
「われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」
と三島は檄文を結んだ。
それだけの思いを持った自衛隊を大衆の前で嘲笑罵倒、それはルース・ベネディクトが指摘しているが如く、古来よりの日本人、特に武士にとっては最高の恥辱の一つである、をしなければならないのである。
何という運命の皮肉であろうか。「生命以上の価値なくして何の軍隊だ。」は彼の慟哭の声である。
そして、更に声の中には、優しさも加味されるべきである。
当然であろう、人が憂えると書いて優しいと読む。日本を、日本人を憂うる三島は優しいのである。
故に檄文の終結部は、魂よりの警鐘乱打ではあっても、怒りに任せての我を忘れた蛮声・怒号や独りよがりの咆哮の類であってはならないと私は思う。
文全体を通してもそうであろうが、特に結びのこの部分は、全体を「三幕構成を援用した作品」と解釈した上での、理知的に統制された詠み方でなければならない。無定見な暴走は、慎むべきであろう。
以上、檄文を詠むに当たって、私の声質の設定をまとめると、
一、英雄的でなければならない。
二、哀調が滲んでいなければならない。
三、優しさが広がらなければならない。
四、理知的さを感じさせねばならない。
以上、四点となる。
これを更にまとめると、勁さと優しさ、聡明さと哀しさを併せ持った声質ということになり、言い方を変えれば、武士の美徳、智・仁・勇を持ち、さらにもののあはれを知った漢の声ということになる。
つまりは、大和魂で詠めということである。西洋のヘルデンテノールから始めた考察が、大和魂へと収斂していく。三島を学ぶということは、このような当為なのであろう。
唯、日本男児が一人屹立するを見る。詠み終えたときこのような状態になっているのが私の理想である。