私が「安倍政権は左翼政権だった」「ナチスは左翼政党である」というと、よくある反応が「君の言う左右の定義は、世間一般とは異なる」と言うものだ。
しかし、私は単に安倍政権やナチスが本来の意味で「左翼」である、と言っているだけではない。そもそも、彼らは世間一般でいう「右翼」や「保守」の定義にも合致していない、と言っているのである。
つまり「安倍政権は保守」「ナチスは右翼」と言っている人達は、彼らの実態を知らずにレッテルを貼っているだけでは無いのか、と指摘しているのだ。もしも安倍政権やナチスの実態を知ると、彼らが本来の意味ではもちろん、世間一般でいう「右翼」「保守」のイメージからもかけ離れていることに誰でも気付くはずだからである。
私が安倍政権を左翼と判断する理由は別述しているが、それでも納得されない方は多いだろう。今回はまず、よく「右翼」の代表格として扱われるナチスを始めとしたファシズム勢力が如何に「右翼」「保守」とはかけ離れた存在であるかを説明したい。
世間一般でいう「右翼」のイメージとは
そもそも、世間一般でいう「右翼」のイメージとは何であろうか?
黒塗りの街宣車で軍歌を鳴らしている集団…一昔前の人はそういうイメージを抱いているだろう。
では、思想的にはどうか。
靖国神社に参拝し、日章旗を(場合によっては旭日旗も?)振り、「天皇陛下万歳!」と叫ぶ。
最近では「右翼」でなくても靖国神社に参拝する人は多いが、いずれにせよ、神社を尊重し愛国心があって、そして天皇陛下を崇敬する、そういう人たちが「右翼」のイメージであり、「右翼」でなければ「保守」と呼ばれるであろう。
少なくとも「神社には参拝しない」「愛国心など皆無」「天皇なんかどうでもいい!国民主権万歳!」な人を「右翼」や「保守」と呼ぶ人は、世間一般にはいないはずだ。そう言う人がもしもいたとすれば、彼こそ「世間一般」とは違う定義を弄んでいる人間であろう。
言うまでもなく、「神祇不拝」(神社参拝拒否)を教義としている新興宗教団体と連携していることを公式サイトに明記し、中国との関係も深く、国民主権を支持しているという、某政権与党は「右翼」でも「保守」でもない。
この某政権与党は「反共」が党是であるが、いくら共産主義に反対していても「神祇不拝」をしている時点で、世間一般は彼らを「右翼」や「保守」と見做すことは無い。もしも彼らを「右翼」扱いしている人がいたら教えてほしい。
また「愛国」という言葉は日本共産党も主張しているが、だからと言って「共産党は右翼だ!」という人はいない。共産党は今でも「将来的な民主共和制移行」を主張している、反天皇政党だからだ。
こうしたイメージは日本特有のものではなく、世界でも普遍的なイメージである。
ヨーロッパでは元々「右翼」とは王党派やそれに相対的に近い立場の人間を指す言葉であったし、今でもその傾向は変わらない。
アメリカでは君主は存在しないが、キリスト教教条主義者らが「右翼」と言われる。アメリカは元々プロテスタントの信者が建国した国であるから、キリスト教が日本で言う神社神道に近い地位を占めているのである。
そして、重要なことは、こうした「右翼」「保守」のイメージがナチスには当て嵌まらない、ということである。
ナチスの“右翼的要素”は「反共」と「愛国」のみ
ナチスの正式名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」である。「社会主義」は左翼的な要素であるが、「国民」の二文字は世間一般でいう「右翼」のイメージに近い。
事実、ナチスは「民族共同体」の建設を訴えて、国民の愛国心を大いに煽った。さらに自分たちが「国民」でないと見做した人間、つまり非ゲルマン民族に対しては激しい迫害を加えた。ユダヤ人へのホロコーストはあまりにも有名である。
また、共産主義にも反対した。ナチスが共産党を弾圧したことは有名である。
しかしながら、ナチスの「右翼的要素」と言うのは、実はこの二点だけだ。
第一に、ナチスはいわゆる「王党派」(当時のドイツで言う帝政派)では無かった。
当時のドイツの帝政派政党はドイツ国家人民党という別政党である。この政党はナチスが議会で単独過半数を得ていないときはナチスと連立を組んだが、『全権委任法』制定以降は解散に追い込まれている。
帝政派とナチスの支持層が対立していたことについては、日本大百科事典の「ナチス」の項目にも「保守帝政派を支持しナチスには距離を置く者のほうが支配勢力の主流をなしていた」「ナチスは、下層中産階級の男女、農村の少年や婦人を積極的に運動に巻き込」んだとある通りである。
第二に、ナチスはキリスト教会を尊重はしなかった。
ナチスは綱領で「積極的キリスト教(独語: Positives Christentum、英語: Positive Christianity))」を支持することを明記している。これはカトリックの教義ともプロテスタントの教義とも一致しない、新興宗教である。
積極的キリスト教とは、ユダヤ人の書いた『旧約聖書』の権威を認めず、イエス・キリストもユダヤ人では無かったとするもので、カトリックの立場方もプロテスタントの立場からも「異端」であると見做さざるを得ない教義であった。
このような新興宗教の教義への支持を綱領に明記しているのであるから、今の日本で言うと公式サイトに神祇不拝の新興宗教との関係を明記している某政権与党のような団体であって、決して「反共愛国」の側面だけを切り抜いて「右翼」「保守」と評価できるものではないのである。
無論、ナチスのそのような姿勢は伝統宗教とは激しく対立した。カトリック教会を支持母体とする中央党の幹部はナチス政権時代に亡命し、また一部の者は反ナチ活動を続けていた。
今の日本で言うと「神社本庁と激しく対立し、新興宗教への支持を綱領に明記した政党」である。そのような政党が仮に存在すれば、誰もその政党を「右翼」とは言わないであろう。
新興宗教としてのナチス
日本では「積極的キリスト教」はあまり重視されていない概念である。グーグルで「積極的キリスト教」を区切らずに検索すると、除外されずに表示されたのは21件だけであった。
だが、この積極的キリスト教こそがナチスの本質であった。ナチスは積極的キリスト教という新興宗教運動にドイツ人を動員しようとしたのである。
そもそも、ナチスはどうして積極的キリスト教への支持を綱領に明記したのか。
これについては専門家の間でも意見の分かれるところではあるが、ナチスの言動全体からある程度の推測は出来る。
選挙で票を獲得するためであるならば、伝統宗教の敬虔な信者を装う方が有利であることは、言うまでもない。事実、積極的キリスト教を綱領に明記したナチスは多くの教会関係者からの批判を受けた。比較的ナチスに好意的であったバプテスト教会においても積極的キリスト教の教義そのものは受け入れられることがなかった。
当たり前のことであるが、政治家は票を増やすために嘘をつくことはあっても、票を減らすために嘘をつくことは、絶対にない。票を減らしてまで行う政治家の言動は、全て「本音」であると解釈するべきである。
ナチス自体は政権安定のためには教会の協力が不可欠と考えており、多くのキリスト教会に自身を支持するように圧力をかけていた。それでも積極的キリスト教を掲げていたのは、ナチスが「本音」のレベルで伝統的なキリスト教会と相容れない部分を持っていた、ということである。
ナチスがキリスト教会と相容れなかった部分の一つは、その強烈すぎる反ユダヤ主義である。「ユダヤ人が書いた」というだけで『旧約聖書』の記述を否定するのであるから、尋常ではない。
しかしながら、そもそも反ユダヤ主義と言えばキリスト教会が本家本元である。
十字軍を派遣してイスラム帝国と戦うはずがユダヤ人を虐殺したり、魔女狩りで多くの異端・異教の信者を虐殺したり、と、ホロコースト並みの大虐殺をキリスト教会は何度も行っている。魔女狩りの犠牲者数は一説には900万人であり、これはホロコーストの犠牲者数であるとされる600万人よりも多い。
だが、魔女狩りには集団ヒステリーの面があり、教会が公式に手順を踏んで殺したのは4万人程度であった、という説もある。一方、ナチスは公式に堂々とユダヤ人を迫害した。これがナチスとキリスト教会との大きな違いであろう。
ナチスが堂々とユダヤ人を迫害したのは、「優生思想」を公式に採用していたからである。
優生思想とは、人間を「優生」な形質を持った者と「劣生」な形質を持った者とに分け(なおメンデルの法則における「優性遺伝」「劣性遺伝」とは無関係。「性」と「生」の誤記で全く意味が変わってしまう)、「劣生」な人間が淘汰されて「優生」な人間が増えることが人類社会全体の利益になる、という思想である。
いわば「いのちに線引きをする思想」であって、しかもこの思想は当初から「キリスト教に変わる新しい科学的な宗教」として提案されたものであった。
進化論を唱えたことで著名なチャールズ・ダーウィンも優生思想の持ち主であったが、優生思想を初めて体系化したのはそのいとこのフランシス・ゴルトンである。彼は明治37年(皇暦2564年、西暦1904年)に第1回イギリス社会科学学会において次のように講演を行った。
「優生思想が通過しなければならない三つの段階がある。第一に、その重要性が厳格に理解され、事実として受容されるまでアカデミック内部で普通の課題となること。第二に、現実的展開を真剣に考えてみる価値のある対象であると認められること。第三に、新しい宗教のように、国家次元の意識へと導入されること。」
(参考文献:米本昌平他著『優生学と人間社会』講談社新書)
まさにナチスは優生思想を「新しい宗教のように、国家次元の意識へと導入」したのであり、ナチスが積極的キリスト教という新興宗教を採用した動機も優生思想と無関係ではないと言えるであろう。
ナチスの優生思想に基づく政策はホロコーストのような反ユダヤ主義だけではない。障碍者への抑圧もそうであるし、また「生命の泉」計画という政策まで実行している。
これは、未婚の女性に優秀なアーリア人の血統を持った子供を産ませるという政策であり、それによって「優生」なドイツ人を増やそうとしたのである。
言うまでもないことだが、このような政策は世間一般でいう「右翼」「保守」のイメージからは大きくかけ離れたものであり、また、単にイメージだけでなく思想的にも「プロライフ」(生命尊重)を支柱とする右翼・保守とナチスの優生思想とは根本的に相容れないものである。
むしろ「生命の泉」計画に代表されるナチスの政策は世間一般の感覚で言うと「右翼」というよりも「カルト」と言った方が正確なのではあるまいか。
左翼政党としてのナチス
以上の内容でナチスが世間一般でいう「右翼」や「保守」のイメージとはかけ離れた存在であることを理解されたと思う。ナチスが「右翼」だと言うのは、彼らの側面の一部分だけを切り抜いたものであり、その実態を詳細に見ていくと世間一般でいう「右翼」「保守」とは別物であるし、また、本来の意味での「右翼」「保守」と異なることも言うまでもない。
一方で、ナチスは「国民社会主義」を掲げており、確かに「社会主義政党」ではあるものの「反共愛国」という世間一般でいう「左翼」からはかけ離れたイメージをも持っているのは、紛れもない事実だ。
つまり、ナチスは世間一般のステレオタイプな「右翼」のイメージにも「左翼」のイメージにも当て嵌まらないのである。
これは、ナチスによる意図的な面も存在する。そもそもファシズム勢力は既存の保守勢力とも左翼勢力とも距離を置く大衆層を基盤に成長してきたからだ。彼らは世間一般でいう「右翼」のイメージも「左翼」のイメージも持たれたくない訳である。
しかしながら、右翼と左翼とは相対的なものである。彼らの思想を精査すると、彼らが右翼と左翼、いずれに近いのかが判明する。
まずは経済政策であるが、経済政策はそれ単体で左右を判別することは難しい。
アメリカでは「小さな政府=右派」「大きな政府=左派」という図式が存在しているが、国際的には「小さな政府」であっても無政府主義者は左翼だとみられるし、またフランスの国民戦線のように「大きな政府」を掲げる右派勢力も存在する。
だが、一つの傾向として右派は自由を重んじる、と言うものがある。
無論、右派の言う「自由」は多くの場合、左派の言うそれとは異なる。例えば、保守思想の祖であるモンテスキューは『法の精神』において、貴族制度が維持されて権力分立が厳格に行われている君主政体こそがもっとも「政治的自由」の保障された体制である、とした。
この点、左派では例えば無政府主義者も「自由」を掲げるが、それ以上に彼らは君主や貴族の存在を否定するのであり、彼らにとって「自由」よりも「平等」が優先事項である。
ナチスは君主政体を支持したわけではなく、そもそも国民の政治的自由を重視しない全体主義政党であって、この点で保守とは大きく異なる。それでは無政府主義かというと、無政府主義者とは違い「国民」の概念を強調していたので、これとも異なる。
また、政治的自由と同時に経済的自由を重視するのが自由民主主義である。広義の自由民主主義には社会民主主義も含まれるが、狭義の自由民主主義は今の時代では新自由主義、ナチスの時代では古典的自由主義と言われる思想がその典型である。この思想は伝統的な保守主義とは相容れないものの、社会主義や無政府主義と比べると右派であるとされるが、ナチスは企業の新規設立を規制するなどしたので、この思想にも当て嵌まらない。
むしろ、計画経済や企業の国家管理と言った政策を実行としたという面で、ナチスの経済政策は党名の通り社会主義に近いと言える。「国民」という概念を強調したという点では一般的な社会主義とは異なるが、「愛国」を強調する現在の中国共産党のような例には比較的近いと言えるだろう。
「保守の仮面を被った左翼」という怪物
ナチスの思想を詳細に検証していくと、その本質は「保守」というよりもむしろ「左翼」である。しかしながら、ナチスは政治活動の現場においては左翼政党と激しく対立し、保守政党と連立政権を築いた。
無論、左翼特有の内ゲバ体質が露呈したということもできる。だが、ナチスが保守票を取り込もうとしたこと自体は、愛国心を強調したことでも判るように、事実だ。
このことが、ナチスは本来の意味でも「世間一般のイメージ」でも「右翼」「保守」の定義に当て嵌まらないにもかかわらず「極右」扱いされる理由の一つなのであろう。
そして、この事実こそが、ナチスの本当の危険性を物語っている。
ナチスとは、即ち「保守の仮面を被った左翼」だったのである。
念の為に言うと、「右翼」「左翼」とは相対的な用語である。ここでいう「保守」とは「左翼と比べると、右」と言う程度の意味しか持たない。
しかしながら、左翼が「本音以上に、右」を装うことは、歴史上珍しくも無いことであった。
絶対王政を擁護したイギリスの思想家ホッブスも本音は共和制論者であったという説があるし、東南アジアでは共産主義者が本来思想的には相容れないはずのイスラム主義者と共闘していたことが少なくない。
今のアメリカでも、ドナルド・トランプ前大統領が「保守」扱いされているのはマイク・ペンス氏を副大統領に指名してからだ。それ以前のトランプ氏はむしろアメリカの保守派である福音派からは低評価であり、保守票を固めるために自分よりも「右」なペンス氏と組んだのである。
一概に比較はできないが、江戸時代の佐幕派が表向きにせよ「尊皇」を掲げていたのも似たような事例と言えるかもしれない。
ナチスはそれをより極端に行ったもの、と解釈できるであろう。
当然のことながら、これは「ナチスに騙された当時の保守派が特別愚かだった」と言う訳では、無い。いや、彼らが愚かなのは事実であるが、今の日本にも同じぐらい愚かな「保守派」は存在する。
ここまでこの記事を読んでくださった方には、まさか「明治維新記念式典に陛下を招聘しない」(それどころか「退位」特例法を制定)「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました!」というような“保守の仮面を被った左翼”に騙されている人はいないと思うが、日本全体で見ると、むしろ騙されている人の方が多数派であることにも気付かれているであろう。
日野智貴(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。日本SRGM連盟代表、日本アニマルライツ連盟理事。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。
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