かつて中国とロシアの中間、モンゴルの東側、朝鮮半島の北方に「満洲」という国があり、「満洲族」という民族が存在した。現在、中国国内で「満族」と呼ばれる満洲族は軍事的に精強で、2度にわたり中華王朝を打ち立てている。
満洲族はもともと女真族と呼ばれる、ツングース系民族の遊牧民だ。金王朝は1115年から1234年にかけて、現在の中国の北半分を支配。清王朝は1644年から1912年にかけて現在の中国全土及びモンゴルを支配下に置いた。
ちなみに、日本の漫画で「ラーメンマン」というキャラクターがいるが、ラーメンマンの髪型は辮髪(べんぱつ)と言って満洲族のヘアスタイルで、元々は兜を被った際に頭が蒸れないようにするものだった。
辮髪はわが国においては中国人をイメージする髪型だが、満州族による清王朝が漢民族をも支配した際、敵味方を区別するために強制したものであった。
ちなみに中国は、満洲族(女真族)に限らず、異民族に何度も支配されている。わが国にも侵略を仕掛けた元王朝(モンゴル帝国)もその一つだ。さらに、漢民族が支配した王朝も分裂と交代を繰り返しており、現在ほど広い範囲を支配したことはかつてなかった。
清王朝末期は、わが国の幕末明治にあたる。迫り来る西欧列強の侵略に対し、阿片戦争などを通じて抵抗を試みるものの、あえなく敗北。中国(シナ)大陸は列強の草刈り場となる。わが国の明治維新は、そのような清国の衰亡に危機感を抱いた志士によって成し遂げられた。
明治27年、わが国と清国は朝鮮半島の独立を巡って開戦する。当時の李氏朝鮮は清王朝の属国であり、朝鮮国内でも独立派と属国派が争っていた。わが国としては、ロシア帝国の南下を防ぐためには何としても朝鮮を独立させ、近代化する必要に迫られていた。
日清戦争の敗戦により、清王朝は権威を失墜。滅亡への速度を速めることになる。列強による領土侵食と国内での反乱が相次ぎ、日清戦争の17年後に清王朝は滅亡する。辛亥革命である。
革命により中華民国が成立するものの、その支配力は弱く、シナ大陸は軍閥が割拠する内乱状態に陥る。そして辛亥革命から20年後、満洲事変が勃発し、翌年「満洲国」が樹立された。
満洲国は、幕末以来わが国最大の脅威であったロシア(当時はソ連)の南下を防ぐ緩衝地帯として、わが国の影響力を保持するために関東軍(わが国が中華民国から租借した関東州を守る帝国陸軍守備隊が前身)が建国したため、現在でも日本の傀儡国家だったとされている。
しかし日本は満洲を、欧米列強が行なったように「植民地支配」しようとしたわけではなかった。その証拠に、満洲国皇帝として清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を擁立している。
皇帝溥儀は歴とした満洲人であり、満洲は彼にとって祖先の土地だったのだ。満洲国の領土は歴史的に漢民族の支配を受けたことはなく、形式的には満洲独立は正統性のあるものだった。
当時の日本人は満洲国に自らの理想を託し、莫大な人的・資金的投資を行った。
結果的に、満洲経営はわが国の敗戦(昭和20年)とともに終焉する。そして満洲は国民党と共産党の内戦の舞台となり、内戦に勝利した中国共産党に支配されてしまった。満洲国を独立国として育てようとした日本の企図は完全に失敗した。
とはいえ、日本人が満洲国で一体何を行ったのかを知ることは極めて重要だ。満洲国は、今の中国にとって「清王朝」と「大日本帝国」という強大な軍事力を誇った「征服者」を象徴する存在であり、中国史最大のタブーとなっているためだ。
現在の満洲では「愛新覚羅」などの民族固有の名前が漢民族風の一文字に改められ、満州語もほとんど使われなくなり、民族文化が消え去ろうとしている。同様の同化政策は、南モンゴル、東トルキスタン、チベットなどでも進んでいる。
それに対して大日本帝国の「支配」は、「五族協和」を掲げる「多民族共生」であり、各民族の文化を尊重しようとするものだった。満洲は、明治以来、われらの祖先が目指した理想の形の一つであり、その理想がどのように潰えたのかを知ることが重要なのだ。