突如“更地”になった神社神道の「第二勢力」誠心明生会とは?

宗教
本文とは関係ありません
この記事は約13分で読めます。

昨年(令和4年)、“知る人ぞ知る”宗教法人が解散した。『宗教年鑑』は前年末のデータを載せるため、まだ最新の『宗教年鑑』には反映されていない。

その宗教法人は、神社本庁を含めて我が国に15しかない神社神道系の文部科学大臣所轄包括宗教法人の1つであり、且つ、包括している神社の数で言うと、神社本庁の次の規模だ。

もっと判りやすくというと、「神社本庁の次に大きい神社神道の教団」が解散した、ということである。

その名は、誠心明生会。グーグルで所在地を確認すると、かつて神社のあったその場所は“更地”になっていた。

陰陽石神社(誠心明生会本部)googleマップ 左:2022年6月、右:2017年7月

しかし、この昨年まで確かに存在した神社神道の「第二勢力」は、その存在をあまり知られていない。一体、この宗教はどのような団体なのであろうか?

その団体の歴史を調べると、戦後の宗教行政をある意味「象徴」する沿革を辿っていたことが判った。

「神社神道=神社本庁」ではない

はじめに説明の必要があるのは、神社神道と神社本庁とは「イコール」ではない、ということだ。

神社本庁は日本最大の神社神道の包括宗教法人であり、恐らく神社神道以外を含めたどの宗教法人よりも大きな規模を持つ。

包括宗教法人とは、複数の単位宗教法人が属している宗教法人のことで、単位宗教法人とは神社や寺院、教会、修道院等の「礼拝の施設を備えた」宗教法人であると定義されている。つまり「神社本庁は数多くの神社を包括している宗教法人である」という風に考えても間違いでは、ない。

かつて神社本庁が「日本には8万の神社がある」というポスターを作成していたが、事実『宗教年鑑 令和4年版』によると我が国には8万847の神社が存在する。しかし、実はその中で神社本庁に属しているのは8万社も存在しない。

神社本庁に属している神社は7万8482社である。これでも『宗教年鑑』に載っている神社の97%を占めてはいるのだが、3%の神社は神社本庁に属していないのだ。

いや、実は神社本庁に属していない神社は統計に計上されないだけで、もっと多い。

『宗教年鑑』が調査の対象としているのは宗教法人と「宗教法人に包括されている宗教団体」、「宗教法人を包括している宗教団体に包括されている宗教団体」である。

やや回りくどい表現であるが、例えば宗教法人格を持っていない神社で、且つ、どの団体にも属していない場合には『宗教年鑑』の調査対象とはならない。

田舎にある小規模な神社にはこの類の神社が数万単位で(一部報道によると約20万社も)存在するといわれているが、これらを対象とした統計調査は行われていないようである。

それでは『宗教年鑑』に載っている神社で、神社本庁に属していない神社とはどのような神社なのだろうか?

神社本庁に属していない神社には大きく分けて3つの理由がある。

一つ目は、そもそも神社神道では無い神社である。そうした教派神道や修験道(『宗教年鑑』上は仏教)、保守系の新宗教(同、諸教)に属している。

二つ目に、単立の宗教法人となっている神社もある。先程宗教法人格を持っていない神社について述べたが、実は宗教法人格を持っている神社でも千以上の神社がどの宗教団体にも属していない。その中には金毘羅宮や靖国神社、伏見稲荷大社といった有名な神社もあり、必ずしも「田舎にある小規模な神社」に限られる訳ではないのだ。

三つ目が、神社本庁以外の神社神道の団体(包括宗教法人等)に属する団体である。その中でも全国規模での包括宗教法人である「文部科学大臣所轄包括宗教法人」で神社神道系の団体は神社本庁を含めて15あった。

もっともこの15教団の内、神社本庁以外に神社を包括しているのは9教団だけである。この9教団の中で最大の91社もの神社を包括していたのが、誠心明生会だ。

因みに神社本庁と誠心明生会に次ぐ第三位は京都府に拠点を置く神社本教で、第四位は広島県に拠点を置く神社産土教、第五位は北海道に拠点を置く北海道神社協会、第六位は同じく北海道に拠点を置く日本神宮本庁である。この6つ以外は全国規模の神社神道の包括宗教法人とは言い難いので省略する。

実態は「新興宗教」だが・・・

神社本庁以外の神社神道系の包括宗教法人も、神社本庁から独立して包括宗教法人を作った事情は様々だ。

神社本教や北海道神社協会は戦前からの経緯があり神社本庁とは別組織を結成するに至った。一方、日本神宮本庁は教派神道である神理教の元教師が設立した、事実上の新興宗教である。

誠心明生会も藤田宗倫が設立した人類福祉教という新興宗教を前身としており、その実態は新興宗教であると言ってよい。

ただ、新興宗教というとどうしても「怪しげな」イメージがついてしまうが、誠心明生会も日本神宮本庁もどちらも戦後から戦後にかけての我が国の宗教行政から、いわば必然的に生み出されたものである。

日本神宮本庁の創始者は戦前教派神道の教師をしていたが、誠心明生会の創始者である藤田宗倫はそれ以上に神社神道として“正統”だ。藤田は戦前から神職であったのである。

戦前神職であった男が戦後新興宗教を創始し、さらにまた神社神道の世界に戻って神社本庁に次ぐ勢力を築き上げる――その背景には、藤田による神社本庁への不信感があった。

“国家神道”の残影と靖国神社国家護持法案

藤田が対外的に自身の思想を表明した文書は少ない。そのため誠心明生会の思想もベールに包まれていた。

もしかしたら私が無知なだけかもしれないので、念の為国立情報学研究所の論文検索サイト「CiNii」で検索したが、やはり誠心明生会について取り上げた論文は存在しない。

そんな藤田が唯一、対外的に(それも誠心明生会教主として)発信したのが靖国神社問題だ。この時の藤田の言動から神社本庁と相容れない思想を抱いていたことが判る。

靖国神社は神社神道の神社の中では特殊である。というのも、戦前多くの神社は内務省の管轄下にあったが、靖国神社は陸軍省と海軍省の管轄であったのである。

左派が政治家の靖国神社参拝を攻撃する際、表向きは「政教分離」を理由としているが、政教分離だけであれば他の多くの神社も同じである(実際、一部の左派は立憲民主党の代表が伊勢神宮や乃木神社に参拝したことまで非難している)。

だが、少なくともマスコミで大きく取り上げられるのが靖国神社参拝の是非である背景には、靖国神社と軍隊の関係こそが批判の本当の理由だからであろう。

神社本庁も靖国神社との関係は良好ではあるものの、法的な包括関係を有していない。それは靖国神社と他の神社とはそもそもの沿革が異なるからである。

沿革が異なるだけではない。神社本庁は戦後においても靖国神社を他の神社とは別格で扱うよう求めていた。それが「靖国神社国家護持運動」である。

しかし、この靖国神社国家護持運動には宗教界の「総反対」が起きた。

現在でもキリスト教会等の一部は政治家の神社参拝そのものに反対している。だが、靖国神社国家護持運動に反対したのは神社神道反対の勢力だけでは無かった。

神社本庁を支持母体とする自民党は、政教分離原則との兼ね合いから靖国神社を非宗教化した上で国家護持する法案を纏めた。これには当時自民党の支持母体であった宗教団体からも批判が殺到した。

立正佼成会は靖国神社が「国民全部のもの」であるとし、「国家の管理下、監督下、統制下」に置くことは「違憲」であるとした。その上で「国家護持」ではなく「国民護持」とすることを主張した。

生長の家も「靖国神社が宗教法人として文部省が認証している以上は、これに関する法案を国会で審議することそのことが違憲となる」とした。その上で靖国神社の祭祀は天皇が「皇室費の中から天皇御自身の費用として支出することにすればよい」とした。こちらは「国民護持」というよりも「天皇護持」ともいうべき主張であろう。

後に立正佼成会と生長の家は自民党支持を止めることになるが、これらの教団は自民党不支持を表明する以前から、靖国神社国家護持を巡っては自民党と対立していたことになる。

賛成派の教団であっても、霊友会が「『信教の自由』が奪われることのないよう監視する方針」であるとするなど、「条件付き賛成」の教団が存在するぐらいであった。

藤田宗倫「宗教の本質から甚だ逸脱した本末転倒」

こうした中、藤田宗倫は昭和43年(西暦1968年)に「本末顚倒は何事ぞ――靖国のみ霊を尊崇するが故に」という論文を発表する。

そこで藤田は靖国神社が「国民の手によって、国民自らの人情の礼が永劫に承け継がれるべき」であるとし、靖国神社の非宗教化を内容とする国家護持法案を「靖国神社解体」であるとした。

そして「靖国神社はどうして宗教団体ではないというのか」と述べて、真正面から神社非宗教論を批判した。

ここに藤田と神社本庁との根本的な認識の相違が存在していることが判る。

神社本庁は例えば昭和33年(西暦1958年)に「神社非宗教論の法理の上に立って、神社法人法を立法すること」を提言している。神社本庁と藤田の間には根本的な前提の相違があったのである。

藤田宗倫は「(靖国神社の)人事権までをも国家の管理にするという事は、元来、宗教の本質から考えて見ても、甚だ逸脱した偏向的な、然もその本末転倒は何事ぞ、と言わざるを得ない」と記す。

戦後になっても「神社非宗教論の法理」による立法を訴えていた神社本庁と、神社は「宗教の本質」から逸脱してはならないとする誠心明生会と、その思想には大きな「断絶」があったのだ。

さらに藤田は「改憲するとまでいうが、なぜ憲法を改変しなければならないのか」とも記す。戦後一貫して改憲運動を主導してきた神社本庁と完全に違う立場に立脚している。

こうした藤田の論文を読むと彼が神社本庁に変わる宗教団体を設立した動機は明白だ。

藤田宗倫にとって、神社非宗教論を肯定し『日本国憲法』第20条の改正を目指す神社本庁は、戦前の国家神道を復活しようとする勢力以外の何ものでもなかった。しかし、藤田はあくまでも神社神道を「宗教」として捉えるが故に、戦前から神社神道の界隈に属しながら神社本庁と対立したのである。

藤田の論文の最後のパラグラフには「元来、神社は宗教でありながら、時の政策に乗って超宗教と言ったり、国民的宗教と言って見たりした事を鵜呑みにして、時々の政治の鼓動によって、その悠久なる生命がうしなわれてはならないのである」という文言がある。この「時の政策に乗って超宗教と言ったり、国民的宗教と言って見たりした事」とは、明らかに戦前の国家神道のことを指している。

ただ、藤田の名誉のために言っておくと、彼の思想を特段「左に偏向」しているとは言えないであろう。藤田は同じ論文で「靖国神社に鎮祭の英霊は、護国の守護霊である」とも記している。そもそも、今の時代は「日本は右傾化している」と言われながらどの政党も靖国神社国家護持など主張しておらず、靖国神社国家護持に反対したことを以て藤田を左だという訳にはいかない。

昭和44年(1969年)に出された69教団による靖国神社国家護持法案反対の声明には、誠心明生会の藤田宗倫と並んで日蓮宗や臨済宗妙心寺派、天台宗、神道大教、仏所護念会、解脱会といった保守色の強い教団の幹部が並んでいる。神社本庁と見解が違ったからと言って、左派だとは限らないのである。

誠心明生会の興亡

誠心明生会の教主であった藤田宗倫の思想を確認したところで、この教団の歴史を纏めてみたい。

藤田宗倫は戦前からの陰陽石神社の神職であり、この陰陽石神社が戦後誠心明生会の本部所在となる。

陰陽石神社は創建年代が不明であるが、大正時代に編纂された『広島県史』には「無格社」として掲載されている。無格社と言っても加藤玄智が昭和10年(西暦1935年)の著書『神道の宗教発達史的研究』に「式内社高諸神社の末社」として実地調査したことが記されており、全く無名の神社と言う訳ではない。

念の為に言うと、無格社も内務省に登録された正式な神社である。ただ、国家神道に属しておきながらその「中枢」ではなくいわば「周縁」にいたことは、その後の陰陽石神社の運命と関係があったのかもしれない。

戦後、藤田宗倫は神から啓示を受けたと称して陰陽石神社を中心に近隣の神社をまとめ、昭和23年(西暦1948年)に人類福祉教を設立した。この教団には神社が122社属していた。当時は神社神道というよりも、新たな教派神道の一派を起こしたという感覚であったのかもしれない。

昭和31年(西暦1957年)に誠心明生会へと改称し、この時も包括している神社数は122社であった。なお、この時100を超える神社を包括していたのは教派神道を含めても他に神社本庁と神社本教のみであり、神社本教は120社であるから当初から神社界の第二勢力として登場していたことになる。

これは神社本庁とは異なる形の神社神道の在り方の模索であったとも言えよう。靖国神社国家護持問題で神社に「宗教の本質」を求めたこともそうした模索の一環であり、またそうした模索に一定の回答を与えることが出来たからこそ少なくない神社を包括することが出来た、と言うことも可能である。

しかし、昭和の間に神社数はゆっくりと減少していたようである。『宗教時報』を見ると、(私もすべてを確認した訳ではないが)誠心明生会の傘下の神社の廃止や神社本庁への移動が少なくなかったことが判る。

この流れは平成になっても止まらず、平成元年(西暦1989年)早々に3社が誠心明生会から神社本庁へと移籍した。昭和60年(西暦1985年)に藤田宗倫が逝去したことも関係していたのかもしれない。

『宗教年鑑 平成7年版』によると、平成6年(西暦1994年)には何と包括する神社数が21社にまで減少していた。神社神道内で第2位から第5位の包括神社数に転落していたのである。しかも、その神社の全てが宗教法人格を有していないという事態になっていた。

そして『宗教年鑑 平成13年版』ではさらなる異変が起きる。これまで回答していた教師数と信者数を突如答えなくなったのである。その状態は令和4年の解散まで続いた。

『宗教年鑑 平成17年版』だと、全ての項目が非回答となっている。『宗教年鑑 平成18年版』では包括する宗教団体数から信者数までの全ての項目が0と回答されたが、流石にそれは事務機能が崩壊しているという事なので、この時点で何らかの行政指導が入った模様である。

『宗教年鑑 平成19年版』では92社の神社を包括していることが記されており、且つ、その神社の全てが宗教法人格を有している。宗教法人格を取得するには3年以上かかることから、これらの神社の多くは既に宗教法人格を有していた神社であり、恐らくは過去に傘下にあった神社であろう。

ところが『宗教年鑑 平成20年版』では再び包括している神社数が0社となる。今度はこれまで神社に分類していた宗教法人を全て「その他」に分類したことが原因だ。

そして『宗教年鑑 平成23年版』では包括している神社数が89社となり、包括している宗教法人の合計数は91となった。さらに『宗教年鑑 平成24年版』では一転して全ての非包括宗教法人を神社に分類し、91社を包括していることになり、そのまま今に至っていた。

ここで判るのは、平成に入ってからのこの団体の神社数の極端な増減は、実態が減っている側面以上に事務的な問題が大きいのであろう、ということである。

そして昨年10月、誠心明生会と、その本部のあった陰陽石神社のどちらも解散し、陰陽石神社のあった場所は更地となった。神社神道界の第二勢力の、あっけない最期であった。

神社神道の未来の姿なのか

誠心明生会本部のあった陰陽石神社は、無格社とはいえ正統な神社神道の神社であった。

そのような神社が更地になったことは、ある意味では全国で起きている光景の一つである、ともいえる。

神社非宗教論に反対し「宗教の本質」を守ろうとした神社神道の第二勢力は、結局消滅する運命であった。このことは「宗教としての神社神道」の存続の困難さを物語っている。

もっとも誠心明生会を「神社神道の未来の姿」と捉えることは早計だ。むしろ私には「神社本庁から離れた神社」の末路に見える。

戦前内務省によって管理された神社神道は、戦後内務省の管理下から解放され“自由”となった。しかし圧倒的に多くの神社が神社本庁に属し、神社本庁以外の包括宗教法人は弱小のまま、誠心明生会のように消滅した法人まで登場した。

現在神社本庁には様々な問題があることが指摘されている。従来は左側からの批判が多かったが、最近は金毘羅宮が今の神社本庁は陛下に対して不敬であるとして離脱するなど、右側からの批判も少なくない。

さらに平成5年(西暦1993年)の政変以降、非自民の保守勢力が登場して久しいが、神社本庁は自民党や日本会議との関係を以前にもまして深めており、非自民の保守層を積極的に取り込もうとする動きは乏しい。

立憲民主党や国民民主党が伊勢神宮に集団参拝しても、神道政治連盟(編注:神社本庁傘下の政治団体)が彼らを応援することは無く、保守系野党が左翼から罵倒されながら「片想い」を続けるだけに終わっている。

そうした中、神社神道内部に「第2の選択肢」や「第3の選択肢」がない状況をこそ、誠心明生会の解散は示しているように思えるのである。

日野智貴

(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。日本SRGM連盟代表、日本アニマルライツ連盟理事。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。

日野智貴をフォローする
宗教日野智貴
AD
シェアする
日野智貴をフォローする
選報日本

コメント

タイトルとURLをコピーしました