昨年(令和元年)末、諸事情により一時的にアルバイトを行った。
某派遣会社に登録し、紹介される求人の中から、自分の時間、場所等の都合がつく勤務先で数か所就業したのだが、その内の一つにスーパー等に並ぶ寿司やおにぎりなどの製造卸を行っている或る食品会社があった。
私は、そこで在日外国人たちの働く現場を目の当たりにすることになった。図らずも、これまで新聞や雑誌などメディアを通じてのみ見聞きしていた実態を体験することができたのである。
そこはまるで「外国」
頭のてっぺんから爪先まで防菌服に身を包み、作業場に足を踏み入れた私を待っていたのは、一見して「異国」と分かる空間であった。
筒状の寿司を機会で等分したり、それをパックに詰めたり、そのパックにラベルを貼ったり、と彼らは忙しなく動いている。
何をすればよいか見当がつかない私は、一見「欧米系」と思しき瞳の女性に促されるままに納豆巻のパック詰めを行うスペースについた。
流暢な日本語で私を案内してくれた女性(カマラさん)は、今度は外国語で他のスタッフに何やら指示を出し始めた。その立ち居振る舞いからして、ある程度の経験を持ったリーダー的な存在であることが察せられた。
私は始め、彼女たちが何語でやり取りをしているのか見当がつかなかった。そこで、ある程度落ち着いたところで、興味本位から何語を話しているのか、彼女に尋ねてみた。返ってきた答えは「ネパール語」だった。
カマラさんが話をしていたスタッフの一人は一見してネパール人だと分かる男性だった。他の2人は、それぞれカマラさんと同じ「欧米系」と「中央アジア系」の女性だった。
一瞬戸惑った私は、すぐに合点がいった。なぜなら、ネパールという国が93の異なる言語や地域を持ち、100以上の民族がクラス「多民族国家」であることを思い出したからである。
ネパール語で「ナマステ!」と挨拶を交わした私に目で微笑んだ彼女たちは、また件と同じように持ち場で作業を始めた。
「使われる」日本人
私が上述の会社で働いたのは、たかだか2日間だけであった。勿論、1から10まで指示を出された訳ではない。実際カマラさんの他に、日本人の「係長」「課長」も同じ空間で仕事をしていた。
しかし、それでもそこには「使う側」の在日外国人(カマラさん)と「使われる側」の日本人(私)という構図が生まれていた。
勿論、外国人から指示を受けたからどうのこうの、という話ではない。私が言いたいのは、あくまで仕事の慣れ不慣れ等、ある意味、働く上で当然の基準で、国籍を問わず働く環境が現出しているという事実である。
作業柄、終始マスクの着用を義務付けられていた。全身を包んだ防菌服と、顔をほぼ覆っているマスク。私には、各人の口を覆っているそのマスクが、必ずしも言葉によるコミュニケーションを必要としないこの現場を象徴しているように感じてならなかった。
学生と労働者の狭間で
「多くのベトナム人やネパール人にとって、日本の高等教育機関を卒業することは、必ずしも自らの学業経歴の終了を意味しないということである。(中略)留学生の多くは、学生時代にすでにアルバイトとして日本の労働市場に組み込まれている。学生期間の長期化は、事実上の低熟練労働者としての期間の長期化を意味している」
少し長い引用になったが、これは社会学者・眞住優助氏の「日本における南・東南アジア人留学生の進路」(『現代思想』2019vol.47-5 掲載)という文章の1節である。
私が、この文章を読んだのは、件の製造卸会社でアルバイトをする以前のことである。
実際に現場で作業をしながら彼らに聞いてみいたところ、留学生は皆、同じ語学学校に通い、そこからの紹介で働いているということだった。
語学学校卒業後の「進路」としては大きく、専門学校または大学という選択がある。今回はゆっくり話す余裕はなかったが、恐らく彼らもいずれかの選択肢を選び、その後、中には、日本企業への就職を目指す者も出てくると思われる。
難しい意識の変化
「外国人労働者率が九州で急伸 09-18年、福岡、全国2位の3.7倍」。令和2年1月5日付、西日本新聞に上記見出しの記事が掲載された。
記事の内容自体は特段真新しいものではなかったが、私が気になったのは、留学生を労働者と位置付けた前提での記事だったことである。
言うまでもないが、留学生は労働者ではない。
確かにアルバイトとして働いているその時点に於いては労働者であるかもしれない。しかし本来、法的には勿論、社会通念上、留学生が労働者である訳はないし、またそうであってはならないはずである。彼らをそのように見做すことは、問題の本質を見えなくしてしまう。
留学生を雇用する企業側は人手不足を解消でき、彼らはおカネを手にすることができる。一見、双方の間では「ウィンウィン」の関係が成立しているように見える。
しかし、長い目で見た際、現状のように留学生を労働者と見做す状況は、国内的、国際的にもいつか支障をきたしてしまうはずだ。
改めるべきは、日本社会の意識である。