たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。三島の生涯はある意味でシュバイツァー的生涯だった。
エドワード・G・サイデンステッカー
三島由紀夫の檄文は、極めて精緻に彫琢(※)された作品である。
※【彫琢】(ちょうたく)宝石などを、きざみ磨くこと。比喩的に、文章を磨くこと。
ただし、通常であればその彫琢の努力は、傑作を書き上げる為に費やされるべきものであろうが、この場合、辞世の句二首を含め、自らの刻苦精励は「駄作」を作る為に成された。
これが、三島由紀夫の檄文の特異性である。
その理由としては、武人として死にたいと述べた三島の言葉に、私は依拠する。
「傑作」を書けば文人としての死である。辞世の言葉は武人として残さねばならぬとの決心のもと、三島は、意図的に「駄作」を書き上げたと私は受け止めている。
三島の「檄文」は文学ではない
この檄文には、三島の文章を語る際に多くの方が指摘する、美文調の華麗さを目にすることがない。使用されている語句も殆どが平易なものである。
であるが故になのだが、この檄文に見る構成の美しさは瞠目に値する。
文章から、目に眩いばかりの常の豪奢な光が失せた分、理路整然と構築されたフォルムの美しさだけが判然と姿を現している趣がある。
そして、この文章は、読んで更にその美しさを増す。
多用される漸層法を中心とするレトリックの巧みさは、文章に整然とした律動感を付与し、読み手或いは聞き手の心を絶えず揺さぶることにより、魂を自然な昂揚へと誘う。
声に出して読めばわかる
命と引き換えに書いた文に対して言うべきことではないと思うが、耳にして、さらに声に出して読んで心地が良い。
考えるまでも無く、檄文は黙読のための文ではなく、声に出して相手に聞かせるための文である。
聞いて更に光彩陸離たるものがあるのは当然との指摘もあろうが、これだけの巧緻を極めた檄文を、浅学にして私は目にしたことがない。
例えば五・十五事件、二・二六事件の檄文を見れば、その中に込められた衷情の深さは、三島の檄文同様、或いは時代背景まで考慮に入れれば、それ以上の痛切を持って胸に響き来るも、そこに、調べの美しさや構成の形にまで配慮を致した痕を、少なくとも私は感じ取ることは出来ない。
ただし、これは他の檄文を蔑しての言葉ではない。三島の檄文の特異性を述べたいがための言葉である。
やはり、三島由紀夫の檄文は「作品」であり、この檄文を読むという行為は、一編の詩を詠みあげる行為に近接したものがあると私は思わざるを得ない。この文章の表題を、読むではなく詠む(※)と表記した所以である。
※【詠む】(よむ)自分の中にある思いをある形式にのせ言語化すること。また他人の作ったそれを同じ気持ちで追体験すること。(例)和歌を詠む。
そこで、以上を踏まえての発言なのだが、私は三島由紀夫の檄文は、従来記載されてきた全十段ではなく、全九段であると主張したい。