私を救ってくれた言葉「ボランティアは永遠の片思い」

人生観
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高校教師時代、インターアクトクラブという奉仕活動を行う部活を立ち上げる際の顧問に任命されたことがあります。それまで、ボランティアなど行ったことも無く、何をすればよいのか分からなかったので、最初は部員たちと校外の清掃活動から始めました。

部員も次第に増え、活動範囲が学校近辺から広がり、他の方々との協同作業が増えてくると、やりがいも大きくなりましたが、同時にボランティア活動の難しさに直面することも増えました。

特に痛感したのは、自分の思いだけではボランティアは成立しないということです。必ず相手の方の気持ちを第一に考え、相手の方が望んでいることを行わねばないということです。部活動初期に応援人員5人で済むところを30人送ろうとしたことがあります。

さすがにこれは周囲からたしなめられましたが、その当時は、そこまで言わなくてもと内心不服の部分が皆無ではなかったのですから、今となっては汗顔かんがんの至りです。

痒くも無いところを一生懸命かいてさし上げても何もならないということは、どなたでもお分かりかと思います。この子供でも分かるであろうことが、ことボランティアになると分からなくなるのだから不思議なものです。当事者が望まないボランティア行為は決して行ってはならない。これは基本だと思います。

私の心の中には承認欲求がありました。ボランティアを行っている自分をほめてもらいたかったのです。ボランティアは無償の行為だと言いながら、心の部分でしっかりと見返りを求めていたわけで、相手のことは二の次になっていたのです。

そのような私を見かねたのでしょう、ボランティア活動で知り合った大手美容室のM社長から頂いたのが、今回タイトルとさせていただいた、「ボランティアは永遠の片思い」という言葉でした。ちなみにこの方は、東北大震災の時、移動式の美容室を車でつないで東北を訪問し、美容ボランティアをしておられます。

明るく気さくな方で、言われなければとても美容師養成学校まで運営されている凄腕の経営者には見えません。この言葉も説教じみたところは微塵もなく、私との日常の会話の中でフッとおっしゃられたことです。

であるからこそ逆に、この言葉は、何の身構えも無かった私の心にスッと入って来ました。これが説教じみた忠告であれば、多分私は心を閉ざし、自己の正当化の理屈を探し、反省の機会はかえって遠のいていた筈なのです。

ボランティアは相手のことをひたすら思っていれば良い、ただそれだけなのです。自分が望んで行っていることです。業務命令でも何でもなく、無理だと思ったら直ぐに止めて良いのです。ましてや見返りを求めるなど、僕は誰よりも君を愛しているのだから、君は僕を愛するべきなのだという、ストーカー並みの心理状態にしてしまう行為です。

どのような道であっても、そこには必ず素晴らしい先達がおられます。まず私たちはその方の言われることこと、実践されていることに素直に従うべきなのです。

これは、学びの方法、守・破・離の最初の段階、守の部分にあたります。そして、守が出来ない内に破を行えば、それは単なる我がままであり、その後の向上の道は閉ざされます。M社長から頂いた言葉は、ボランティア道からはぐれかけていた私を救ってくれた言葉なのです。 

石原志乃武

(いしはら・しのぶ)昭和34年生、福岡在住。心育研究家。現在の知識偏重の教育に警鐘を鳴らし、心を育てる教育(心育)の確立を目指す。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会幹事。福岡黎明社会員。

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