平成31年4月1日からNHKで放映されている連続テレビ小説『なつぞら』(主演:広瀬すず)に登場するインド式カリー店「川村屋」が話題になっている。
ヒロインの同級生が菓子職人になるべく修業し、ヒロインも雑用係として一時期働く舞台となった新宿の川村屋は、現実に存在する「新宿中村屋」がモデルになっているのでは?と噂されているのだ。
「革命が生み出した味だ」
劇中で主人公たちが川村屋のインド式カリーを食べながら会話するシーンから、台詞の一部を抜き出してみよう。
「このカリーはね、いまのマダムのおばあさんにあたるマダムが、その昔、インドの独立運動をしていたインド人革命家を助けたところから、ここで作られるようになったんだ」
「インド人の革命家?」
「そう、その革命家はイギリス政府に追われて、日本へ逃げてきたんだ。そこでマダムはその革命家を、川村屋に匿った。そのインド人が、このカリーを伝えたんだ」
「本場のカリーを伝えたのか…」
「いわばこれは、命がけで守った、マダムのカリーだ。革命が生み出した、川村屋の味だ。それが今もこうして残ってる」
「すごい…」
(第44回/令和元年5月21日放送)
2種類のカレーライス
以下、平成21年に私が個人ブログに投稿した記事を、改稿して再掲する。
一口でカレーライスと言っても、わが日本には大きく分けて2種類のカレーライスが存在する。
一つ目は、帝国ホテルに象徴されるオーソドックスなカレーだ。そもそもカレーはインド発祥だが、インドを植民地として統治していたイギリスに伝わり、それがイギリス人好みに大きく改良され、日本に伝わった。
二つ目は、インドから直接日本に伝わったインド風カレーだ。私の出身大学の近くでも生粋のインド人がカレー屋を営んでいた。いつでも本場の味を堪能することができる。
大英帝国の過酷な植民地支配
さて、イギリス経由で日本に伝わり、帝国陸海軍での軍隊食を通じてカレーライスは昭和始めまでには日本全国に広まった。その日本におけるカレーをとりまく情勢に憤慨したひとりの在日インド人がいた。
彼の名は、「ラース・ビハーリ・ボース」。彼こそが、後のインド独立に大きな貢献を果たした、英雄に他ならない。
ボースは、西暦1885(明治19)年に、イギリスの植民地であったインドに生まれた。当時のイギリスによる植民地統治はたいへん酷いもので、その代表的な制度が「強制栽培制度」だ。
強制栽培制度はオランダがアジアの植民地で始めた制度だが、政府が植民地の農民に対して特定の作物を指定して強制的に栽培させ、独占的に安く買い占めるというもので、住民に非常な負担となった。
本来稲作をおこなってきた水田で、商業用のサトウキビなどを栽培させたため、凶作が重なると深刻な飢饉がおきる例もあったといわれている。
玄洋社の大アジア主義
インドの上流階級に生まれたボースは祖国のおかれた状況に憤り、ついにインド総督を暗殺しようとする。しかし失敗し、大正3年、日本に亡命した。当時のわが国はイギリスとの間に同盟を結んでいたので、政府はボースの来日を歓迎しなかった。それどころか、彼に国外退去を命じたのである。
その時、政府の対応に反発した日本人達がいた。
それが、福岡を中心にして活動していた玄洋社の人々だ。玄洋社とは、旧福岡藩士が中心となって結成された団体で、自由民権運動の一大発信拠点となったことでも知られている。
明治維新後、薩摩や長州によって牛耳られていた帝国政府を批判し、国会開設などを要求。後に大アジア主義を唱え、日本だけでなくアジア各国を欧米の植民地支配から解放すべく世界的に活動を展開するようになった。
後の福岡市長となる進藤一馬氏も、この玄洋社出身だ。
インド人独立運動家を匿った新宿中村屋
そんなわけで、玄洋社の人々がボースに同情したのは当然だった。玄洋社の中心人物であった頭山満翁は、新宿で中村屋というお菓子屋さんを営んでいた相馬愛蔵にボースを匿うよう依頼。相馬家は家族ぐるみでボースを政府の追及から守った。
最終的に追い詰められてボースが相馬家を出なければならなくなると、長女である俊子さんが4年間に渡ってボースに付き添っている。
逃亡生活中に二人は結婚するが、政府による追及が止んだ翌年、俊子さんは26歳の若さで亡くなる。それだけ過酷な逃亡生活であった。
「祖国愛」が生み出したインド式カレー
ボースが相馬愛蔵の経営する中村屋にインド式カレーを伝えたのが昭和2年のことだ。当時一般のカレーライスは10銭から12銭。中村屋が出した本場のインドカリーはなんと80銭で、しかも強烈なスパイスと骨付きの大きな鶏肉が当時の人々を驚かせたのは言うまでもない。
しかし改良の努力もあって、中村屋のカレーは飛ぶように売れた。
中村屋のホームページにはこう書かれている(平成21年当時)。
「こうして、純印度式カリーは中村屋の名物料理になりました。そこにはボースの、祖国に対する愛情、相馬家に対する感謝があったのです」
やがて時代は大きな展開を見せ、日本はアメリカやイギリスを相手に戦争を挑む。
それまで民間で行われていたアジアの独立運動支援は、政府・軍を挙げて行われるようになった。
昭和18年、ラース・ビハーリ・ボースは同じくインド独立運動家であったスバス・チャンドラ・ボースらとともにシンガポールへ向かい、自由インド仮政府を樹立。そしてインド国民軍の指導者となった。
しかし夢に見たインド独立の日を迎えることなく、昭和20年、日本で亡くなる。妻・俊子との間に生まれた正秀も同年、沖縄戦において戦死した。
ボースが愛して止まなかった祖国・インドがイギリスからの独立を果たすのはその2年後のことだ。
誇りを失わなければ、いつか独立できる
最初に日本へカレーを伝えたイギリスではこんにち、家庭料理としてはすっかり廃れてしまっているそうだ。一方わが国では、街に出ると実にたくさんの種類のカレーを味わうことができる。
カレーの歴史一つとっても、私たちは人類の辿ったこの数世紀の劇的な展開を垣間見ることができる。
これから、皆さんがインド式カレーを味わうことがあるならば、祖国の独立に命を捧げた一人のインド人を思い出していただきたい。そして、欧米の世界に抵抗して戦った、私たちの先輩のことを、思い出して欲しい。
自分の国の文化に対する誇りを失ったとき、その国の独立は失われるだろう。しかし逆に、誇りを失わない民族はいつの日かきっと独立を恢復するのだということを、ボースが教えてくれているように思えてならない。