令和3年7月13日、アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の興行収入が100億円を突破したと東映が発表した。公開から127日で観客動員は655万人を超え、「ロボットアニメ」(庵野秀明総監督)としては過去最高記録を達成した。
1995年の「エヴァ」
「エヴァンゲリオン」が初めて世に出たのは、平成7(西暦1995)年のテレビ放映(テレビ東京系列/全26話)だった。
当時私は中学生で、リアルタイムでは観なかったものの同級生が興奮気味にエヴァについて語っていたことを覚えている。遅ればせながら、大学生になってネット配信で全話観ることができた。
いま思うと、1995年は戦後日本にとって一種の特異点だった。
1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件(同年5月に麻原彰晃逮捕)が発生している。7月にAmazonがサービスを開始し、11月にWindows95が日本で発売されたことからも、情報革命の端緒となった年だ。
アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は同年10月から翌年3月にかけて放映された。偶然にも放送当時、私は主人公と同じ14歳だった。後に劇場版で主題歌を提供した宇多田ヒカルも同学年だ。
「エヴァ」のストーリー
テレビ版『エヴァ』の舞台は2015年、破局的大災害後の日本である。
主人公は世の中の不幸を全部一人で背負った気になっている思春期の男の子だ。その主人公が、父親からいきなり戦争に行かされる。主人公は何度も拒否するが、嫌々戦い続ける。そんな物語だ。
『エヴァ』に限らず、日本のアニメや漫画などで戦争を描くものは多い。先行作品としては『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』などが典型例だ。近年の作品でも『進撃の巨人』は明らかに戦争を描いている。
戦後日本が長らく「一国平和主義」を掲げてきた一方で、青少年たちはフィクションの戦争に熱中して来たとも言える。
フィクション世界での戦争は当然ながら、実際の戦争とは様相が違う。敵が地球外生物であったり、味方が巨大ロボット兵器を使用したりする。しかし生存を賭けた闘争としての戦争であることに変わりはない。
1995年から続く「有事」
戦争を有事、あるいは緊急事態として捉えるならば、日本社会は1995年から有事に突入したと考えることもできる。現在の「新型コロナ緊急事態」も、26年続く有事の一部なのだ。
問題は、日本人自身が、日本が有事に突入したことを受け入れられていないことではないか。現在でも日本社会の支配クラスターである団塊世代が強く持つ「高度経済成長の成功体験」こそが、現実を受け入れることを阻害している。
それは「頑張れば報われる社会」という幻想である。しかし実際には「失われた30年」という長期不況があり、日本は間違いなく衰退に向かっている。アニメが描く破局的世界の方が、日本人の現実認識よりも忠実に現実を描いていた。
ここで我々が向き合うべき課題は、いかにサバイバルするか、である。
大人になったキャラクターたち
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』において、主人公たちはなぜか14歳の肉体のまま歳を取らない。しかし同級生など周囲の登場人物たちは歳をとっている。
同級生たちは破局的災害を生き残り、過酷な環境の中で村を作り、共同生活を続けている。その中で、同級生の一人は「無理して大人にならざるを得なかった」と語るのである。
主人公はしぶしぶ戦いながら、戦いを忌避して自分の殻に閉じこもることを繰り返す。それは現実の厳しい競争社会を忌避して引き籠る人々にも重なる。だからこそ、いつまで経っても大人になれない。
『エヴァ』の物語を通じて考えさせられることは、ヒトはいかにして大人になることができるのか、大人になるとはどういうことなのか、だ。それは庵野秀明氏自身への問いであり、『エヴァ』ファンを含む日本人全体への問いだったのだろう。
共同体の再構築へ
アニメ「エヴァンゲリオン」シリーズの最終作は、奇しくもコロナ・ショックによって公開延期を余儀なくされ、結局その渦中に公開された。
1995年という特異点に「エヴァンゲリオン」という作品が投げかけたテーゼ(命題)は何だったのか。
私見ながらそれは「ヒトは一人では生きられない。ゆえにヒトは集団を構築し、集団を守るために戦わねばならない」という、ごく当たり前の指摘だったように思う。(勿論それだけではないが)
東日本大震災やコロナ禍にあっても、日本国民は節度を保ち、共同体を守ってきた。一方で、危機に際して責任と権限を持つ政治家や行政機構は、あまりにも不甲斐ない姿を晒している。(それは映画『シン・ゴジラ』でより露骨に描かれた)
私たちは、エヴァンゲリオン最終作において「国連機関ネルフ」に反旗を翻した「ヴィレ」のように、あるいは荒廃した日本列島でサバイバル生活を送る「第3村」の人々のように、新たな共同体の構築を試みる時期に来ているように思う。
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