暴走する偽書論争で史跡が消される!? 馬部隆弘著『椿井文書』の問題点(前編)

今、地方自治体が揺れている。コロナ禍もそうだが、文化行政も大変な事態に襲われている。

それは「偽書疑惑」だ。今年出版された馬部隆弘氏の著書『椿井文書―日本最大級の偽文書』において、

畿内各地の神社縁起や地方史の出典が「椿井文書(つばいもんじょ)」という偽文書であった

と断言され、コロナ禍の中で同書は瞬く間に売れ、ネット上では同書に基づいた主張がなされるようになった。

『椿井文書―日本最大級の偽文書』広告

同様のことは過去に東北地方でもあった。『東日流外三郡誌』をはじめとする一連の「和田家文書」が“偽書”であるとのキャンペーンが貼られた事件である。

「偽書」――この二文字は、何かとてつもない“巨悪”の存在を感じさせる。だが、歴史学においては「史料価値のある偽書」も存在する上に、「偽書疑惑が否定された」こともある。

“偽史”を糾弾する前に、立ち止まって考えてほしい。何でも疑ってかかることは一見科学的に見えるが、疑うだけで学術的な論証を遠ざけていれば、単なる「中二病患者」のクレーマーに過ぎない。

そもそも「偽書」とは何か

馬場氏の『椿井文書』では「偽文書」という言葉が用いられているが、古文書とは宛先と執筆者が明確なもの(例:手紙)を指す。馬場氏自身も述べているように「椿井文書」には古文書の要件を満たしていないものもあるから、ここではより広い意味の「偽書」について述べる。

よく「偽書」と「真書」について、次のような誤解をしている人がいる。

偽書:偽りの内容が書かれた書物
真書:真実の内容が書かれた書物

だが、これは「偽書」についての初歩的なミスである。

「偽書」というのは『世界大百科事典』で次のように定義されている。

著者を偽ったり,有名な書籍に似せて作った著書。制作の目的は,有名な人物の名によってその著書の権威を高め,または自己の立場,主張を強化するために行うものである。また文芸的趣味のため,権力に関係なく仮託するものもある。中国では古くから偽書が多いが,日本では上古景仰意識の起こった平安末から鎌倉時代にかけて仮託が行われ,聖徳太子撰《先代旧事本紀》も平安時代の偽書であろうといわれている。聖徳太子には〈十七条憲法〉をはじめ著作が多い。

つまり、著者(や作成時期)が虚偽であるか、又は、著名人に似せて著者について誤解させようとしているものが、偽書なのである。ここでは偽書の例として『先代旧事本紀』が挙げられている。

注意しなければならないことは、偽書の中にも史料価値の高いものは存在する、ということだ。百科事典にまで偽書の例として挙げられてしまっている『先代旧事本紀』だが、神社神道においては『古事記』『日本書紀』に並ぶ「神典」と位置付けられている上に、学会でもその史料価値は評価されている。つまり、偽書にも「真実の歴史」が含まれていることはあるのだ。

また、寺社縁起等において偽書は必ずしも珍しくない。空海、最澄、日蓮、親鸞…歴史上の名だたる高僧について調べると「偽書」「偽書疑惑有」の史料は枚挙に暇がない。かと言ってそれらの「偽書」が後世に影響を与えている例もあるのだから、偽書だからと言って研究の対象にならないことはないのである。

草内咋岡神社の縁起の根拠は本当に「椿井文書」なのか?

馬部氏は著書『椿井文書』において、少なくない数の神社の縁起や史跡が椿井政隆というたった一人の人間によって作られた偽書を根拠とする「偽史」である、ということを述べている。そして、そうした偽書群を書名でもある「椿井文書」と名付けている。

しかし、彼は実際に内容を確認したわけでもない古文書まで「椿井文書」だと断定し、そのことを前提に立論するなど、その論理展開にはかなり問題がある。

例えば、次の記述だ。

明治二六年(一八九三)一〇月に、草内の天神社は新たに発見された「旧記」に従って、社名を咋岡神社へと改めている。争いの発端はここにあった。今井家が椿井文書を頒布していた時期と重なることから、この「旧記」は椿井文書とみて間違いあるまい。高橋美久二によると、草内咋岡神社には「山城国草内村宮神之記」なるものが所蔵されていたらしいので、これに該当すると思われるが、残念ながら現物にはあたれていない。ただし、事件と推移とこれまで明らかにしてきた椿井文書の傾向から、およその内容は察しがつく。
(馬部隆弘『椿井文書』158頁)

これは式内社である「咋岡神社」の比定に関する問題である。

式内社とは『延喜式』に名前の載っている神社で、古代朝廷の神祇官の影響下にあった神社のことである。

これは必ずしも有力な神社と言う訳ではなく、例えば古代から多くの貴族の崇敬を集めていた石清水八幡宮は式内社になっていない。式内社の中には当時から零細な神社もあったし、朝廷の力が弱まった中世以降に衰退した神社もあった。

そうした神社は近世には名前も残っておらず、近世、近代になって元の名前に戻そうという動きがみられるようになる。その中には記録が少ないのをいいことに勝手に名乗る「自称式内社」も存在した。

咋岡神社も『延喜式』においては「山城国綴喜郡」(今の京田辺市近辺)にあるとしか記されておらず、具体的にどこかは議論があった。そして、明治10年に飯岡村の天満社が、明治26年に草内村の天神社がそれぞれ咋岡神社に改名したことをきっかけに、どちらが本物かの議論が公になった。このようなことは全国各地の神社でよくみられる風景であり、多くの場合どちらの主張にも一理はある。

だが、馬部氏はその内草内村の方の咋岡神社が主張の根拠とした「旧記」を「椿井文書を頒布していた時期と重なる」というだけの理由で、椿井文書と判断して「間違いあるまい」と断定、さらにその「旧記」とは馬部氏自身が見てもいない「山城国草内村宮神之記」だと推測し、読んでもいないにもかかわらずそれが「椿井文書」だという前提で「およその内容は察しがつく」としている。

このような乱暴な推測に次ぐ推測で神社の縁起を偽物扱いされたら、たまったものじゃない。そもそも、馬部氏自身が著書に書いてある通り、椿井政隆は咋岡神社が飯岡村にあったという見解であった。

なお、椿井文書の「筒城郷朱智庄・佐賀庄両惣図」では、咋岡神社を現在の飯岡咋岡神社の地に描いていることから、椿井政隆はあくまでも咋岡神社は飯岡村にあってしかるべきだと考えていたようである。
(同書、159頁)

このような状況証拠を勘案すると、馬部氏が草内村の咋岡神社の「旧記」が椿井文書だと判断して「間違いあるまい」としたのは、勇み足ではないのか。その「旧記」の書名も不明であるにもかかわらず、見たこともない「山城国草内村宮神之記」だと推測して、その内容を勝手に想像して神社の縁起を偽史扱いすることは、学問の方法としても崇敬者へのマナーとしても瑕疵があると言わざるを得ない。

その「偽書」認定に根拠はあるのか?

椿井政隆が偽書を作成していたことを疑う研究者はいない。しかし、どの文書を彼が偽作したのか、また、その内容は全てが出鱈目なのか、は別問題である。

例えば、馬部氏は「朱智」という言葉があるものは椿井文書だと判断できる、ともしている。これは「朱智神社」という式内社に関するものだ。

先程の咋岡神社と同じく京田辺市に朱智神社という式内社がある。だが、この神社は近世には牛頭天王社と称していた。『延喜式』の時代には朱智神社と名乗っていた、というのが当社の主張であるが、馬部氏はその根拠こそが椿井文書なのである、としている。

馬部氏が「椿井文書」と判断した文書には明治以降に拡散されたものも少なくない。馬部氏によると椿井家が古文書を今井家に質入れしており、その今井家が売却した古文書類が拡散されたのだという。草内咋岡神社の縁起もその一つである、というのが馬部氏の主張だ。

朱智神社の中川政勝神職もこのルートで入手していたと推測されるが、これは中川政勝が三ノ宮神社の三松俊季神職に語ったとされる内容を、さらに三松の誘いで今井家から古文書を買い取った三宅源次郎が又聞きして記録したものである。裁判においては証拠能力が疑わしいと判断される、典型的な「伝聞証拠」だ。

また、馬部氏の考える通りこの「伝聞証拠」が信用できるとしても、今井家にあった文書が全て椿井文書だったのか、また、それらは本当に偽作であったのか、偽作であるならばその内容の信憑性はどうなのか、は問われないといけない。

馬部氏の著書に登場する「興福寺官務牒疏」は研究者の間では比較的よく知られた史料で、これにも朱智神社に関する記述が出てくるが、これが本当に椿井文書かも断言できるレベルにあるかは不明である。というのも、例えば近衛基通公墓「興福寺官務牒疏」の記述を参考に発見されたと言われているが、近衛基通公墓自体は本物である。

つまり、椿井文書だと馬部隆弘氏が判断したものであっても「実際には偽書ではないもの」や「偽書ではあるが一定の史実を反映したもの」が存在している可能性が極めて高いのである。
(これは馬部氏の説が誤りであると言っているのではない。そうでない可能性もある以上、断定は困難だということである。)

“椿井文書”以前から存在していた「伝王仁墓」の伝承

さて、ここまで馬部氏の主張の問題点を指摘してきたが、ここまで挙げたのは馬部氏の主張の根拠薄弱な部分への指摘であって、学問的な議論の積み重ねによって馬部氏の主張の正しさがかえって指摘されるかもしれないし、逆にその誤りが指摘されるかもしれない、という程度の問題である。

馬部氏の件の著書はあくまで「新書」であって「学術書」の体裁ではないので、上記で挙げたような問題点は今後学術的な議論の俎上に乗せられていくであろう。馬部氏自身、自身の考えを学術論文等で表明されている。

だが、一方では馬部氏が学術書ではない「新書」に記した事実誤認の内容により、地域の伝承が否定され、地方自治体の担当者が糾弾されている事例が出てきている。それが「伝王仁墓」(枚方市)だ。

仁徳天皇の弟である菟道若郎子の家庭教師であった百済からの帰化人・王仁の墓とされる伝承地について、馬部氏は並河誠所が著書『五畿内誌』に根拠なく書いた内容と、それに基づき椿井政隆が偽作した「王仁墳廟来朝記」とが根拠であり、片や根拠無き国学者の主張、片や偽文書、つまり実際には何ら根拠のない「偽史」だと言いたいようである。

そして、伝王仁墓が国の史跡になったのは「内鮮融和」という朝鮮半島統治を円滑に進めたい当時の国策に椿井文書の内容が合致したからである、としている。馬部氏は大物右翼の内田良平らが王仁神社奉賛会を結成したことなどに触れ、伝王仁墓の整備を恰も右翼思想を持った人たちが偽書を利用した結果であると読者が認識するように著述している。

現在も王仁墓の史跡指定は解除されておらず、韓国の要人や観光客の訪問が絶えない。並河誠所による『五畿内誌』の安易な一文と、それを補完しようとする椿井文書が相互に補完することで成立した極めて危うい説ではあるものの、真正な古文書として一度利用されてしまったがために、払拭することができないのである。
(引用前掲書、175頁)

だが、王仁墓の伝承は並河誠所や椿井政隆以前から既に存在していた。有名人の名を上げると貝原好古や松下見林も伝承の存在を記録している。決して並河誠所による「安易」な断定でも、椿井政隆による偽作でもない。

だから仮に「王仁墳廟来朝記」が椿井政隆による偽作だという馬部氏の説が正しくとも、王仁墓の伝承が実際に存在していた以上、史跡登録を取り消す必要性などどこにもないのである。

しかし、馬部氏の著書によりコロナ禍にも関わらず枚方市を糾弾する動きが出てきた。現在、枚方市は伝王仁墓の紹介を公式ホームページから削除している。

枚方市のウェブサイトから削除された「伝王仁墓」のページ

学術的な議論ではない、単なる事実誤認に基づいた糾弾で地域の伝承が否定されてもよいのだろうか?

真作説も根強い「和田家文書」を“明らかな偽作”とする傲慢さ

私が最初馬部氏の著書に疑問を持ったのは、冒頭部分の次の一文であった。

(後編に続く)

日野智貴(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。関西Aceコミュニティ代表。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。





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