明治時代を先導した「知の巨人」福沢諭吉の意外な横顔とは

明治維新から150年。NHK大河ドラマでも西郷隆盛が取り上げられるなど、幕末明治について注目が集まっている。
維新を実現したのは薩摩藩や長州藩をはじめとする外様だったわけだが、新政府ができてからは、旧幕臣や譜代の出身者も大活躍している。その代表例が福沢諭吉だ。
いま壱万円札の肖像にも採用されている福沢諭吉とはいったいどんな人物だったのか、亜細亜大学非常勤講師で近代日本政治思想史の専門家である金子宗徳氏が解説した。

黒船と白旗

まず、幕末から明治にかけて何が起こったのか、おさらいしておきましょう。福沢諭吉は、明治11年(1878)に書いた『通俗国権論』の中で、次のように述べています。

「今の禽獣世界に処して最後に訴うべき道は必死の獣力に在るのみ」

「禽獣」とは動物のことです。動物の世界、即ち弱肉強食の世界において、最後に頼りとすべきは「獣力」すなわち剥き出しの暴力だと福澤は指摘します。つまり、全ては力の論理で動いているのだ、という非常に冷めた認識です。

嘉永6年(1853)、ペリーが4隻の艦隊を率いて来航します。初めて蒸気船を見た当時の人々は、かの有名な狂歌ができました。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」

上喜撰は上級の緑茶のことですが、同じ読みの蒸気船と掛詞になっています。また、船は1隻・2隻という数え方が通例ですが、の他に1杯・2杯という数え方もあります。即ち、お茶を4杯飲んだらカフェインで眠れなくなるというのと、蒸気船が4隻きてビビって眠れなくなるということをかけた戯れ歌です。

この時、ペリーたちは幕府の役人に国書と一緒に白い旗を渡しました。

当時の日本では、白い旗は源氏の象徴。一方、赤い旗は平氏の象徴。この源平合戦を模して、学校の運動会でも赤組と白組に分かれますね。

では、「オレ達は源氏だ」と云いたかったかといえば、さにあらず。

「鎖国の法を守って戦ったところで日本が負けるのは明白である。降伏を申し入れる際に、この白旗を使いなさい」と言ったという記録が残っています。圧倒的な軍事力の差を蒸気船で見せつけ、日本に開国を強調したということです。

このように、近代日本は西洋列強の脅威を撥ね退けるという課題を背負いつつ出発せねばなりませんでした。その中でサムライたちはどう考え、どう生きたか。当然のことながら、福澤諭吉も、そうしたサムライの一人でした。

福澤諭吉は天保5年(1835)に生まれ、明治34年(1901)年まで生きました。

大政奉還が慶應3年(1867)のことですから、福澤諭吉は前半生を江戸幕府の下で、後半生を明治新政府の下で生きました。本人は「恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く,一人にして両身あるが如し」と述べています。まさに、時代の転換点を生きた人物です。

西洋事情の紹介者

福澤諭吉には様々な側面がありますが、一つ目は「西洋事情の紹介者」という側面です。

ここに面白い写真があります。これは、万延元年(1860)、幕府の使節団に随行してアメリカに行った際、サンフランシスコで撮影された若き福澤の写真です。

福澤の隣に座っているのは、写真屋の娘さんです。現地の女性とツーショット写真を撮ってくるという行動に、同輩たちは口惜しがったと『福翁自伝』に記されています。

福澤の語学力は、どの程度だったのでしょうか。福澤が外国語を学び始めたのは江戸時代です。当時は鎖国していましたから、ヨーロッパ系の言語で学べるのはオランダ語だけです。開国後、横浜を訪ねた福澤は驚きます。看板が読めないのです。オランダに代わってイギリスの勢力が増していましたから当然です。そこで、今度は英語を習得します。

発音はブロークンだったようですが、この写真からも分かる通り、度胸の良さで押し通したのでしょう。

帰国後、広東語と英語の辞書に英語の読みと日本語の訳を附した『増訂華英通語』を刊行したり、『西洋事情』という書物を執筆しています。

啓蒙思想家

二つ目は、「啓蒙思想家」という側面です。

啓蒙とは、「蒙=目が見えない状態」を啓(ひら)くという意味です。英語ではenlightenmentと訳されますが、lightという語があることから分かるように「光を与える」という意味です。要するに、理性の光によって無知から救ってあげる、バカを賢くしてあげる、という極めて「上から目線」の言葉で今なら問題になるかもしれませんが、当時としては大きな意味を有していました。

伝統的な権威や世俗的な因習、つまり「偉いとされていた存在」とか、「当たり前とされてきた習慣」に対し、容赦のないツッコミを入れ、その虚構性を暴いていったからです。

その根拠となったのは、「近代自然科学に基づく合理精神」です。「どうして、そうしなければいけないの?納得のいく説明をしてよ!」と福澤は言うのです。

『福翁自伝』にいくつか具体的な話があります。

福澤が12歳くらいの頃、兄が整理していた古紙を踏んでしまったところ、「殿様(中津藩主)の名前が書かれた紙を踏むとは何事か」とられます。殿様の名の書いてある紙を踏むのが悪いことなら、神様の名のある御札を踏んだら罰があたるに違いないと試してみると、何も起こりません。ならばと、今度は便所の後始末に使った挙句、汲み取り式の便所にそのまま捨ててしまいます。しかし、罰は当たりません。何も起こらないではないか、兄の主張は不合理だ。そんなエピソードが『福翁自伝』に残っています。

福澤は、こういう人物でした。

事業家

三つ目は、「事業家」という側面です。

福澤は「官尊民卑」の風潮を厳しく批判しましたが、口で言うだけでなく、民間にあって様々な事業を興しました。その代表が、今日に残る「慶應義塾」という教育機関です。また、廃刊になりましたが、「時事新報」という新聞も創刊しています。

福澤は日本社会の非合理さを容赦なく批判します。しかし、そこに留まらず、それを解決すべく行動を起こしたのです。

※「国体文化」に記事の続きが掲載されています。

金子宗德(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所所長/亜細亜大学非常勤講師

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