外国人と交渉する前に押さえておきたい、神話にみる「契約」の違いとは

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今回は「契約」について考察してみたい。

契約は我々の日常の生活、企業活動など日々の様々な場面で行われる行為である。例えば民法に沿うと、契約は

「原則として、二人以上の人の『申し込みと承諾』という相対立する意思表示が合致したもの(合意)であり、それらによって彼ら相互間に権利・義務が発生するもの」

ということになる。

民法は売買契約、贈与契約など合計13種類の契約について規定を設けている。もちろん、民法に定められた13種類(典型契約)だけが契約の全てではない。

誰が誰とどのような契約を結ぼうと、当事者の自由だ。これを「契約自由の原則」と呼ぶ。契約自由の原則は、「所有権絶対の原則」「過失責任の原則」と共に、近代司法の基本原則である。

西洋キリスト教圏における「契約」の起源

少し視点を変えて見てみたい。キリスト教徒の教典である「聖書」。この聖書には『旧約聖書』と『新約聖書』がある。

『旧約聖書』で述べられているのは、イスラエル民族と神との関係である。『旧約』とは文字通り、「旧(ふる)い」契約のことだ。

では、旧い契約とは何か。この契約は、神とイスラエルの民との間で交わされた。ユダヤ人の祖先であるイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、約束の地(カナン)に導かれる途中、シナイ山においてイスラエルの指導者・モーセを通して結ばれた。

モーセの「十戒」

ここで神は、イスラエルの民を救済する代償として「十戒」(他の神を信仰しないことなどの戒律)を定めた。しかしイスラエルの民は偶像崇拝などによって十戒を破り、「契約不履行」となって約束の地を失い、離散する。

一方、新約聖書では、イエス・キリストがわが身を犠牲として神と人類のために「新たな契約」を結ぶ。神はキリストを通じてイスラエル民族の背信という罪を赦し、キリストの教えを信じる者の救済を約束するのだ。(これを福音と呼ぶ)

キリストの「最後の晩餐」

旧約、新約はラテン語で「Vetus Testamentum」「Novum Testamentum」と書く。現代英語で「testament」は遺言、遺書、信条、告白などの意味がある。これが、「the Old [New]Testament」と大文字になることで、旧(新)約聖書を意味することになる。

日本語にするといずれも「契約」という訳になるが、通常使われるcontract(契約)とtestamentは言葉として性質を異にすることが分かる。

このように西洋キリスト教圏では、「契約」の概念は「神が与え、人が守る・信じる」というところに発していると考えられる。

日本神話にみる「契約」の起源

では日本ではどうだろうか。

古代日本には、一種の占いによって「神意を伺う」儀式があった。これを「誓約(うけい)」と呼ぶ。

例えば『古事記』に「天の安の河の誓約」というエピソードがある。速須佐之男命が姉・天照大御神に背く気持ちが無いことを証明するため、姉と弟が持っている物(勾玉と剣)を交換し、これを噛み砕いて神を産む。

天照大神

誓約(うけい)の場面は高天原に限らず、地上世界でも度々見られる。これにより「神意」に背く者は死ぬことすらある。

元々は「誓う(うけう)」という自動詞で、

(1)吉兆を判断するために神意を伺う
(2)祈る。祈願する。祈誓する。
『全訳古語例解辞典』(小学館刊)より

という意味がある。

つまり日本の「誓約(うけい)」には「神への誓い」や「神意に従う」という要素が含まれていると考えられる。ここから日本における契約概念は、神を審判者(第三者)として人と人が対等に結ぶ約束として発展したと言えるのではないだろうか。

例えば、鎌倉時代以降、日本人は契約に際して「起請文(きしょうもん)」を取り交すようになる。起請文とは、

「自分の言ったことや行為に、うそ偽りのないことを神仏に誓い(ちかい)、相手に表明する文書」
『全訳古語例解辞典』(小学館刊)より

である。戦国時代においては大名どうしの軍事同盟や和睦に際して多く取り交わされている。

起請文に使われた「熊野牛王符」

日米同盟はいかなる「契約」か?

キリスト教圏では「強者」である神が「弱者」であるイスラエルの民や人類との関係において契約概念が発達したのに対し、日本では(西洋によって近代的契約概念がもたらされる以前は)約束は各人の「神への誓い(ちかい)」によって対等に証明されるものであった。

この両者の違いを、戦後体制の根幹を成す「日米安保条約」という国家間の契約に置き換えて見ればどうだろうか。

同条約は、しばしば「片務的」であるとの指摘がなされる。その理由は、アメリカが日本を防衛する義務を追っているにもかかわらず、日本はその義務を免れている、というものであった。

日米安保条約第5条には、

「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」

とあるように、集団的自衛権の範囲が「日本国の施政の下にある領域」に限定されている事がその理由だ。確かに軍備の実働的な観点からすれば、片務的と言えるかもしれない。

しかし、実際には同条約第6条に

「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」

と規定されているとおり、日本は基地提供という形で、費用面を含め相応の「債務」を負っている。

実は、日米同盟を「米国という強者から日本という弱者への恩恵」とみるか、「基地を使用する権利を日本が米国に与えることで対等になっている」とみるか、占領末期の安保条約締結交渉の中でも両国間で議論になっていた。

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この背景には、日米同盟を「神と人との契約」にしたい米国側と、「神(この場合は国連という第三者)の前に互いに誓う契約」にしたい日本側の思惑の相違があったというのは考えすぎだろうか。

国家間の契約交渉に限らず、今後企業や個人レベルでも海外との接点が増えていくことに伴い、必然的に文化的衝突が増えるだろう。

そのような時、相手方の主張や要求の根源にある歴史、文化、思想を知らなければ、思わぬ損害を被ることになる。逆に言えば、相手方の思考パターンを知っておくことで、却って物事を有利に進めることができる筈だ。

安部有樹(あべ・ゆうき)昭和53年生まれ。福岡県宗像市出身。学習塾、技能実習生受入団体を経て、現在は民間の人材育成会社に勤務。これまでの経験を活かし、「在日外国人との共生」や「若い世代の教育」について提言を続けている。

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