皇太子徳仁親王殿下は平成30年2月21日、東宮御所にてご自身のお誕生日(2月23日)に際しての会見に臨まれた。皇太子殿下におかれては、平成31年5月1日に新天皇に即位されることが決定している。
会見の冒頭で「皇太子としての残りの期間、どのようなことに重きを置いて過ごされたいとお考えか」という記者の質問に対し、「両陛下の御公務に取り組まれる御姿勢やお心構え、なさりようを含め、そのお姿をしっかりと心に刻み、今後私自身が活動していくのに当たって、常に心にとどめ、自己の研鑽に励みつつ、務めに取り組んでまいりたい」と述べられた。
さらに、昨年「三條天皇、伏見天皇、後陽成天皇の三方の歴代天皇」の式年祭が行われたことに触れ、「過去の天皇が人々と社会を案じつつ歩まれてきた道を振り返る機会も大切にしていきたい」とのお気持ちを明かされた。
ここで参考までに、殿下が挙げられた天皇御三方の御事蹟を紹介したい。
第67代 三條天皇
三條天皇は平安時代、藤原道長が全盛を極めた摂関政治期の天皇。道長の娘を中宮とするも、皇太子時代からの妻を皇后とし、中宮との間には内親王(女児)しか誕生しなかったこともあり、道長から譲位を求められるなど対立する。晩年は眼病を患い、譲位後ほどなくして崩御。
三條天皇が譲位の際に詠まれた和歌が小倉百人一首(選者:藤原定家)に収められている。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
(大意:思い通りにはならない世の中だが、心ならずも長生きしてしまったなら、いま眺めている夜更けの月が、きっと懐かしく思い出されてくることだろう)
第92代 伏見天皇
伏見天皇は鎌倉時代、皇統が持明院統と大覚寺統に別れた初期の天皇。持明院統初代の後深草天皇を父に持ち、大覚寺統初代の亀山天皇は叔父に当たる。即位したのは大覚寺統・後宇多天皇の次であった。
皇位継承を巡り、身内が骨肉の争いを繰り広げ、譲位したのちも巻き込まれ続けた。後の南北朝時代を導いた「両統迭立」は鎌倉幕府の干渉によるものであったことから、伏見天皇は幕府に不信感を抱き、倒幕の意志もあったのではないかと言われている。
息子の後伏見天皇と花園天皇の御代で院政を敷き、出家後崩御された。
第107代 後陽成天皇
後陽成天皇は安土桃山時代、豊臣政権から徳川政権初頭にかけての天皇。織田信長が京都を掌握した時代の正親町天皇は祖父に当たる。父である誠仁親王が早世されたため、正親町天皇から譲位された。
豊臣秀吉は織田信長の方針を継承し、「朝威回復」(天皇の威信を回復すること)によって自己の権力増大を図った。また、後陽成天皇は学問に造詣が深く、戦国大名・細川幽斎からは日本の古典を学んだ。関ヶ原の戦いでは西軍についた幽斎のために勅使を送り、講和を促している。
徳川政権になると朝廷は幕府の監視下に置かれ、「朝威」は抑制されることになる。最終的に徳川家康の反対を押し切って譲位し、その6年後に崩御された。

皇太子ご一家(宮内庁公式サイトより)
平成29年、三條天皇は千年祭、伏見天皇は七百年祭、後陽成天皇は四百年祭だった。この御三方の事績を追うだけでも、歴代天皇の苦労が偲ばれる。皇太子殿下は歴史学の専門家であることからも、思うところがあられたのかも知れない。
わが国の政治は、早い時期に権威と権力が分離し、権威を万世一系の皇統が担い、権力は時代とともに移り変わった。しかし、皇室がいつの時代も安泰だったのかと言うと必ずしもそうではない。繰り返される権力闘争に翻弄されてきたのも事実だ。
さらに大東亜戦争敗北後は、皇室としての存続の危機に晒された。日本を占領した連合国の中には皇室の廃止を主張する国も存在した。
今上陛下は、占領憲法に規定された「象徴天皇」としての役割をどう果たすか苦心して来られた。自然災害など事あるごとに行幸され、親しく国民と接し、国民を励まされた。
現在の皇室は、将来の皇位継承資格者の激減という危機に晒されている。男性皇族は、皇太子殿下、秋篠宮殿下の次の代には、悠仁親王殿下お一人となる。
そのような中、皇太子殿下は並々ならぬ御覚悟で即位に望まれることが、御言葉の端々から拝察される。国民として、全力で新天皇をお支えせねばならない。
▽皇太子殿下お誕生日に際し(宮内庁)
www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/18
本山貴春(もとやま・たかはる)独立社PR,LLC代表。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会副代表。福岡市議選で日本初のネット選挙を敢行して話題になる。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。