菅谷さん待望のCD発売
菅谷怜子さん待望のデビューCDが発売されました。
1853 : THE LAST GLOW of PIANO SONATAS《1853》ピアノソナタの黄昏
- 福岡市出身のピアニスト、菅谷怜子さんのデビューアルバム。(68分3秒)
- リスト(Franz Liszt):ピアノソナタ ロ短調
- ブラームス(Johannes Brahms):ピアノソナタ第3番 ヘ短調 作品5
すでに、「音楽現代」誌でも、推薦盤の評価をいただいており、地方の無名ピアニストの“自主制作盤”としては、異例の高評価を勝ち得ています。
事実、演奏・録音ともに最上質の音楽芸術を楽しめるもので、是非一人でも多くの方々に聴いて欲しいのですが、そのCDに関して、菅谷さん本人がご自身のフェイスブックで「大音量で聴いて欲しいと」仰っていたので、私は本当に嬉しくなってしまいました。
この言葉は、天性の演奏家としての菅谷さんの自負と、聴衆との関係性を非常に大切に考える表現者としての誠実さが溢れ出たものであり、簡単に言えば一流の人間の言葉使いなのです。
音量は音楽の感銘に直接の影響を与える
デビュー60年を超え、今なお第一線で活躍するモンスター級のレジェンドロックバンド、ザ・ローリングストーンズ。彼らは自身の歴史的大傑作、レットイットブリードを発表した時、そのジャケットに、THIS RECORD SHOULD BE PLAYED LOUD(大音量でこいつを聴いてくれ)と記しました。
また、これも伝説級のロックスター、デビッド・ボウイ、彼もまたロック史上屈指の傑作アルバム、ジギースターダストで、ジャケットに、TO BE PLAYED AT MAXIMUM VOLUME(最大限のボリュームで聴け)と記しました。
菅谷さんもそうですが、彼らは人に聴かせるという表現行為において、音量は表現の優劣に直接関与する要因であることを知り尽くしているのです。
特に菅谷さんの場合は、演奏音量の強弱の幅がロックよりも格段に広いクラッシックです(楽譜に細やかに記された、フォルテ(強く)、ピアノ(弱く)といった強弱記号を思い出してください)。
菅谷さんには、ロックミュージシャン以上に音量のコントロールにこだわりがあることだろうと思います。
曲の音量は曲想の表出であり、同じメロディーでも音量が異なれば、曲は全く異なる相貌を示します。ベートーヴェンの運命交響曲、あの有名な冒頭の運命主題を、小音量で弱々しく演奏すればどうでしょうか。
それでも人はあの衝撃を覚えるでしょうか。音楽には必ず、その楽想に対する最も適切な音量が存在するのです。それは、料理で、熱いうちにお召し上がり下さい、というシェフの言葉に近しいものだと思います。
今回のCDは音の一流シェフ菅谷怜子が渾身の思いを込めて作った極上の一品です、大音量で心の贅沢を味合わさせていただいています。
声に出して詠めば分かる檄
音響表現における音量の役割に着目する時、どうしても私は、三島由紀夫の檄文に思いを馳せてしまいます。ご承知の通り、檄文の(文学的)評価は高いものではありません。あの三島の文にしては余りにも凡庸であるとの評が通り相場でしょう。
ただ、それは檄文を目で読むからだと私は思っています。当たり前ですが、檄文は読むものではなく聞かせるもの、それも己の激情を聞かせ、相手の心を揺さぶるべきものなのです。表現としては音楽的な要素が非常に大きいのです。
是非、檄文を大声量で己の魂をぶつける思いで朗々と詠みあげてみて下さい。
三島由紀夫が人生最後に託した至純の憂国の情が、硬質な大理石のように美しい響きを伴い私たちの胸に迫って来るはずです。駄作どころではない、本当に彫琢を尽くした文章なのです。
そうすれば、普通の音量を持って平坦な調子で読んでいく檄文は、冷え切ったラーメンを食すようなものであったと容易に感得されると思います。
檄文の真価が等閑視され続けてきたことについては、檄文が持つ音響効果についての吟味が足りなかったことにも、その原因の一端があると言わざるを得ないのです。
私たちは到底、菅谷さんのようにピアノを弾くことはできませんが、檄文を詠み上げることはできます。そうすれば、世界レベルの文章とはこれ程凄いものなのかということが、理屈を飛び越え心に直に響く実体験を味わうことができます。
人に聴かせるという行為における音量の問題について、私たちはさらに意識的でなければならないと改めて感じるこの頃です。
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