檄文の内容は、大きく三つに分けられる。それは、
(1)行動原理の表明(現行第一~三段落)
(2)現状認識の表明(現行第四~六段落)
(3)決意行動の表明(現行第七~十段落)
である。
つまり、我々はこういうものである。我々は現状をこう認識する。ゆえに我々はこのように行動する。以上、極めて理路整然かつ明晰な文章内容である。
ただし、これらのことに関しては、既に山本七平氏が、三島自決後、かなり早い段階において「日本教について~あるユダヤ人への手紙~」の中で同様の指摘をしている。今更私が屋上屋を重ねることではない。
私が指摘したいのは、九段落構成と解釈した時に檄文が持つ、構成と内容の見事なまでの均衡美のことである。
檄文にみる「均衡美」の秘密
それは、
一、全九段落と解釈することで、各部とも三段落の均等で均整の取れた構造になった。
二、第五段落は、全九段落の中心としての位置を得たことにより、全体がシンメトリカルで優雅なアーチ状の構造になるとともに、この段落がミッドポイントの位置を担っていたこと、つまり、全体は演劇の三幕構成の作劇法に準拠して作られていたことが明確となった。
三、檄文の内容は、舞楽における序破急の運びで進められている。
これより、檄文は、純日本的なるものが西洋的な三幕構成と融合されて作られたことが明らかとなり、その結果、檄文が内包していた精神的姿形の美しさ、それは日本的道理と西洋的論理が高い次元で止揚されたもの、が顕在化した。
以上、三点に要約されるが、少しばかり補足をしておきたい。
最も重要な内容とは?
檄文の内容が「序破急」の進みで述べられていることは、一読すれば誰しも感ずることであろう。
更に言えば、檄文は全3210文字からなる文章であるが、序の部分(現行第一~第三段落)が1381文字、破の部分(現行第四~六段落)が981文字、急の部分(現行第七~十段落)が848文字というように、形式的にも後半へ行くほど性急になっているのである。
ただし、序破急の進みだけで檄文を詠めば、あれだけの激烈な内容を持った文である。最終段落が詠み手の感情の暴走・暴発で終わる危険性が高い。
「オカマのヒステリー」とは三島の自決直後、ある人物が言い放ったコメントであるが、確かに詠み方次第では、このように曲解される要素も檄文には皆無ではない。
しかし、檄文を三幕芝居の作劇法を加味したもの、つまり第五段落を中心点と考え、最も重要な内容はここにあると考えて詠めばどうであろうか。
感情の迸り、物理的音量の頂点は最終段落であろうが、内容的な頂点は第五段落にあると解釈して詠めばどうであろうか。
感情に任せた暴発に終わっていたものが、意識的に制御された爆発へと姿を変えはしないであろうか。
現に三島は、第五段落の冒頭に、銘記せよ!と感嘆符まで付けているではないか。
最終段、今からでも共に起ち、共に死のうは、誰が見ても感情的な頂点であることは分かる。
しかし、第五段落、銘記せよは、ここが中心点であることを認識していなければ、流されてしまう危険性がある。感嘆符を付けるにあたり、そのことも三島は考慮に入れていたはずである。
何を「銘記」するのか?
さて、そこまで周到に考え、檄文を構成した三島由紀夫が、その人生の最終メッセージとして残した、銘記せよ!であるが、一体我々は何を銘記すべきなのだろうか。
何を今更言っているのだ。昭和四十四年十月二十一日の出来事に決まっている。現に文中にそう認めてあるではないか。そのような誹りを受けそうであるが、少し待って頂きたい。
ここまで、私は三島由紀夫の檄文は「作品」であると考えて、論を進めてきた。そうでなければ、本来「実用目的」の文章である檄文に、ここまで彫琢を施す理由が説明できないからである。
であるならば、檄文は自衛隊隊員のみに向かって書かれたものではない。それは、広く国民に向かって、それも未来へ向かって書かれたものであると考えるべきであろう。
では、何を三島は我々に銘記せよ、心に刻み忘れるなと言っているであろうか。
その手掛かりを、私は第四段落の終結部、「名を捨てて実を取る!」、恰も口にするのも汚らわしいと言わんばかりの、この言葉に見る。
「お前達、忘れるな!この退廃と堕落に満ちたソドムとゴモラ(※)さながらの、無様な汚濁に満ちた日本の姿を!」
三島の思いは、このようなものではなかったかと私は個人的に受け止めている。
かくまでに醜き国となりたれば 捧げし人のただに惜しまる
ある戦争未亡人の残した和歌だそうである。持って瞑すべし、まさに銘記せよ!であろう。
※ソドムとゴモラ(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)
ヨルダンの低地にあった町。現在は死海南部に水没。旧約聖書『創世記』によれば,ケダラオメルの連合軍に敗れたのち,道徳的退廃がはなはだしいため天からの硫黄と火によって滅ぼされた (創世記 19・24~28) 。(中略筆者)ソドムとゴモラは,はなはだしい罪悪とこれに対する神の罰を示す言葉として用いられている (マタイ福音書 10・15など) 。