追悼 石原慎太郎氏 日本は偉大な人物を失った

小説
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令和4年2月1日、元東京都知事で作家の石原慎太郎氏が亡くなった。昭和7年生まれ、89歳だった。

石原氏は昭和31年、一橋大学在学中に短編小説『太陽の季節』を発表し、芥川賞を受賞。同作は当時の若い世代に支持され、自由奔放な行動をとる若者たちを「太陽族」と呼ぶ流行語を生む。映画化に際しては実弟の石原裕次郎氏がデビューするきっかけになっている。

昭和43年、35歳の若さで参院全国比例区に自民公認で出馬し、トップ当選した。そのとき集めたのは約301万票で、個人票としては史上最高とされている。すでにこの時から田中角栄を批判していた。

昭和47年に衆院選へ出馬し当選。翌年に日中国交正常化を批判して自民党内に派閥横断的政策グループである「青嵐会」を旗揚げした。結成に参加した政治家は中川一郎、渡辺美智雄、浜田幸一、森喜朗、綿貫民輔、山崎拓など、衆参合わせて31人。現在まで続く保守系政治家の源流ともいえる。

昭和50年に東京都知事選に初挑戦するも、当時現職の美濃部亮吉に敗れる。美濃部は日本社会党と日本共産党を支持基盤としており、極めて左翼色の強い都運営(革新都政)を行っていた。

しかし翌(昭和51)年には早くも衆院選で国政復帰。環境庁長官(福田赳夫内閣)や運輸大臣(竹下内閣)を歴任した。平成元年には自民党総裁選に立候補するも支持を集められず落選。平成7年に衆院議員を辞任し、その4年後には東京都知事選に再挑戦して圧勝、初当選している。

石原氏は晩年まで人気作家であり続け、政治家としてもトップレベルの知名度と支持を保った。ソニーを創業した盛田昭夫氏との共著『「NO」と言える日本』では戦後日本の対米追従を批判するなど、その政治姿勢も一貫していた。

一方で、政界デビュー当初から批判してきた田中角栄の生涯を小説『天才』(平成28年)にまとめ、再評価している。

保守運動のカリスマ

都知事になって以降の石原氏については、様々な評価がある。少なくとも、保守運動における石原氏の存在感は極めて大きかった。まさにカリスマだった。

平成22年、尖閣諸島近海で海上保安庁の艦艇と中国漁船が衝突。海上保安官の一色正春氏がYoutubeにその記録映像を公開して菅直人内閣から処分された。このとき石原氏は一色氏を支持し、平成24年に尖閣諸島を東京都として購入する計画を発表。これが野田政権による尖閣(魚釣島、北小島、南小島)国有化に繋がった。

同年、石原氏は都知事を辞任。「太陽の党(たちあがれ日本)」の共同代表に就任して数日後に「日本維新の会」と合流し代表に就任。その1ヶ月後の衆院選で当選し、国政への復帰を果たした。

しかし平成26年の衆院選を前に日本維新の会は「維新の党」と「次世代の党」に分裂。石原氏は次世代の党の最高顧問になったが、同党が振るわず、政界引退となった。

一見きらびやかな作家であり政治家だったが、その生涯は決して平坦ではなかった。何より、石原氏は自身の政治信条を貫き、決して権力に迎合しなかった。そのような氏の姿勢が多くの日本人に感銘を与えてきた。

89歳はじゅうぶん長命で、大往生だ。しかし石原慎太郎氏という偉大な人物の志は、果たされたとは言い難い。いま氏の人生を俯瞰すると、それは挑戦と挫折の連続だった。

石原慎太郎氏はまさしく、愛国者だった。われわれ日本人は、偉大な人物を失った。

本山貴春(もとやま・たかはる)選報日本編集主幹。独立社PR,LLC代表サムライ☆ユニオン準備委員長。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会事務局長。福岡市議選で日本初のネット選挙を敢行して話題になる。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。著作『日本独立論:われらはいかにして戦うべきか?』『恋闕のシンギュラリティ』『水戸黄門時空漫遊記』(いずれもAmazon kindle)。

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