暴走する偽書論争で史跡が消される!? 馬部隆弘著『椿井文書』の問題点(後編)

私が最初馬部氏の著書に疑問を持ったのは、冒頭部分の次の一文であった。

津軽地方の知られざる古代・中世史を伝えるという触れ込みで戦後に登場した「東日流外三郡誌」は、巷間に広まって真贋論争まで巻き起こしたが、研究者からみれば内容は荒唐無稽で明らかな偽作である。
(引用前掲書、5頁)

『東日流外三郡誌』とは、江戸時代の寛政年間に秋田孝季(たかすえ)と言う歴史家が作成した文書の一つである。秋田孝季は三春藩主である秋田千季の義理の息子であった。なお、三春藩主には秋田孝季(のりすえ)という人物もいるが、秋田孝季(たかすえ)とは別人である。

この『東日流外三郡誌』を含む多くの史料が東北地方の青森県五所川原市の石塔山や和田家に伝来していた。それが「和田家文書」である。

彼の言う「研究者」が具体的に誰を指しているかは判らないが、彼が想定する研究者が「和田家文書」を見ると「明らかな偽作」だと判断するそうである。

しかし、国際日本文化研究センターの笠谷和比古名誉教授はこの「和田家文書」のいわゆる「寛政原本」を本物の近世文書であると鑑定している。他にも真作説に立つ研究者は多いが、何よりも笠谷和比古教授は歴史教科書の執筆者に名を連ねるほどの近世文書研究の権威である。まさか、馬部氏は笠谷教授が「研究者」ではない、とでも言われるつもりだろうか?

この笠谷教授の鑑定には、原田実氏以外誰も反論していない。原田実氏も一度「寛政原本」とされたものを実見して、これまで流通していた「明治写本」と同じものだと判断したに過ぎない。近世文書の専門家でもない原田実氏の「一見」による感想と、笠谷教授の鑑定とどちらが説得力あるかは、言うまでもないであろう。

無論、馬部氏が「和田家文書」偽作説を唱えるのは自由である。しかし、「研究が見ると明らかな偽作」と言うのは、笠谷教授を始めとする真作説の論者は「研究者では、ない」と言うことになってしまい、あまりにも傲慢な態度である。

せいぜい「私が見ると明らかな偽作だった」と言う程度の表現にするべきであろう。馬部氏の脳内では異説を唱える「研究者」はいないのかもしれないが、それは馬部氏の定義する「研究者」の範囲が怖ろしく狭いか、彼の視野が怖ろしく狭いことを示しているだけである。

なお、この機会に触れると昨年、NHKが『東日流外三郡誌』について偽作説を前提とした番組を作成した。出演者は偽作派の研究者のみ。真作説の笠谷教授もNHKへの出演歴があるにも関わらず、NHKは真作説の研究者を全く報道させなかった。

以前『選報日本』で触れた「神武天皇架空説」についてもそうだが、学界でも議論のある説を“既成事実化”するマスコミの在り方は大いに問題であるし、特にテレビ局がそれに荷担するのは「放送法」第4条に違反する違法行為である。

「偽作」のレッテルを貼られた金光上人史料

「椿井文書」を巡る事件と「和田家文書」を巡る事件とは、似ている。どちらも偽作派が一方的に「偽史」のレッテルを貼り、郷土史の書き換えを迫った。

その一例が、青森県の浄土宗の高僧である金光上人に関する史料である。青森県仏教会会長等を歴任した佐藤堅瑞上人は戦前から金光上人に関する研究を行っており、戦後「和田家文書」に含まれていた金光上人関連の史料も利用して『金光上人の研究』という本を出版した。

これについて、偽作論者が激しい非難を加え、浄土宗は「和田家文書」を根拠とした主張の否定を表明するまでに追い込まれる。金光上人が建保5年(西暦1217年、皇暦2877年)3月25日に入滅したという「和田家文書」の記述――「和田家文書」以外にも記載はあるのだが――についても、造作された伝承であるとして宗門として否定した。

もっとも、これは宗門の偽作派の圧力に対する政治的妥協の産物であったらしい。というのも、平成28年(西暦2016年、皇暦2676年)には建保5年入滅説を前提とした「金光上人八百年大遠忌」が行われているからである。

金光上人入滅年に関する論争にはここでは立ち入らないが、これは入滅年に関する「和田家文書」等の記述が『法然上人勅修御伝』における金光上人の記述と齟齬があることを根拠に否定されていたものの、実際には『法然上人勅修御伝』における金光上人の記述の方に誤りがある、という指摘が出ており、今でも議論が続いている。

考古学の成果とも一致している「和田家文書」

「悪魔の証明」という言葉がある。「和田家文書」偽作論者はデマを含む様々な主張をしており、偽作が無かったことを証明するためにはその全てに逐一反論する必要があり、それ自体は可能ではあるものの、本稿で詳細に論じることは適切ではない。

だが、「和田家文書」の史料としての信憑性を主張する方法は、実は容易である。「無かったこと」ではなく「有ったこと」を論証すればよいのである。

それは、「和田家文書」の「寛政原本」に対する笠谷教授の鑑定もそうであるが、考古学の成果についてもそうである。「和田家文書」の内容に基づいて発掘調査が行われ、その結果、「和田家文書」の内容が裏付けられたならば「和田家文書」には史料価値がある、ということになる。

よく「和田家文書」について「一見、考古学の成果と一致しているようにみえるが、実際にはすでに発見された遺跡について“後出し”で史料を偽作しているのだ」と述べる者がおり、ネット上にはそのような論者の文章が出回っているが、それは明らかに誤りである。

例えば、頻繁に上げられる「和田家文書」の三内丸山遺跡に関する(とされる)記述であるが、偽作論者はそれを三内丸山遺跡発見後に偽作したものだ、としている。

しかし、それは詭弁である。三内丸山遺跡に関するとされる記述は、三内丸山遺跡発見以前に公刊された「和田家文書」にも存在している。そもそも、「三内丸山遺跡」というがこれは「大字三内字丸山」にあった遺跡で、「大字三内」に遺跡があることはそれ以前から知られていた。そのため、「和田家文書」に記述があっても何ら不審ではないのである。

三内丸山遺跡は著名すぎてセンセーショナルな議論が行われてしまいがちだが、学問的にはもっと重要な議論がある。それは「福島城」の築城年代に関するものだ。

『東日流外三郡誌』には福島城が「承保甲寅元年築城」だと記されている。平安時代の承保元年(西暦1074年、皇暦1734年)に造営されたというものだが、この記述のある『東日流外三郡誌』北方新社版が公刊されたのは昭和60年(西暦1985年、皇暦2645年)で、この頃に福島城が平安時代に造営されたという学説は存在しなかった。当時は福島城が鎌倉時代から室町時代の間に造営されていたと考えられていたのである。

福島城平安時代造営説が考古学界で唱えられるようになったのは、平成3年(西暦1991年、皇暦2651年)以降の富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館による調査によってからだ。

これは考古学の成果をもとに「和田家文書」が偽作されたのではなく、逆に、考古学の成果が既に公刊されていた「和田家文書」の内容と一致していたことを示している。

また、福島城近辺にある山王坊遺跡については、発掘調査に当たった坂田泉氏が『東日流外三郡誌』の記述と一致すると述べている。なお、偽作論者の中には坂田論文の「部分引用」によって『東日流外三郡誌』の内容が信用できないという者がいるらしいが、それは詭弁である。

藤村明雄氏は「『和田家資料』の考古学的考察」(『季刊邪馬台国』五二号所収)において、先に紹介した坂田泉氏の同じ論文を引用し、偽作の根拠とされている。(略)藤村氏は次のように述べる。/「未発掘部分には、スペース的にはとても十三もの寺院が配置できそうにないとしている。一致点に比べて相違点には肝心の部分が多く含まれている。」/ 「今後の発掘成果が、ますます『東日流外三郡誌』の内容とギャップが大きくなることは目に見えている。」/これら藤村氏の文章には嘘とトリックがある。坂田氏の論文の当該部分(山王坊の復原に関する部分)は「3.山王坊復原試考」と「4.測量 調査と復原再考察」とからなっており、昭和五七年の発掘調査結果に基づいて復原案の考察が記されているのが前者で、昭和五九年に実施された全域の測量 調査結果に基づいて再考察されたのが後者である。そして、藤村氏が紹介された、スペース的に十三の寺院の配置は無理という見解は前者の考察事時点のものである。(中略)なお付言すると、偽作論者の願望とは裏腹に、山王坊遺跡のその後の発掘調査によれば坂田氏が推定された十三宗寺院近辺から、次々と建築物の礎石が発見されており、「ますます『東日流外三郡誌』の内容と一致が大きくなっている」のである(昭和六〇~六三年にかけて行われた発掘調査)。
(古賀達也「『東日流外三郡誌』の真作性」『古田史学会報第4号』)

「和田家文書」には様々な興味深い記述があり、その中には近世文書にしばしば見られる荒唐無稽な記述も存在するが、考古学の成果で正しさが証明されたものもある以上、慎重な史料批判の対象となるべきことは言うまでもない。

歴史論では「中二病患者」になるな

歴史学を論じる際には、無批判に史料を信じてはならないことは勿論だが、何でもかんでも「信用できない」「根拠がない」「こんなものを信じる大衆はバカだ」「行政までも信じているのか、電凸しないとな」みたいな態度の「中二病患者」もまた、学問的に正しい態度とは言えない。

ネット上でも馬部氏の『椿井文書』を根拠に行政を攻撃している人は「和田家文書」偽作論者と被っているようだが、伝王仁墓のような地域の貴重な伝承が一部の「中二病患者」によって葬られるようなことは、あってはならない。

日野智貴(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。関西Aceコミュニティ代表。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。





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