怒涛の衆院選が終わった。今回の選挙は何から何まで異例づくめで、実に面白い選挙だった。この記事を書いている時点で結果はわからないが、選挙戦に「参加」して改めて感じたことを書いておきたい。
私が初めて選挙に関わったのは、小学校6年生のときだった。父親が福岡市議選に自民党推薦で出馬したのだ。当初は、地元市議の後継指名を受けての出馬だったが、当の市議が不出馬を選挙直前で撤回したため、隣の選挙区に移って立候補した。
子供は選挙運動には関われない。それでも私は父親の選挙事務所に入り浸り、選挙運動というものを内側から眺めていた。私が政治や選挙に強い関心を持つようになったのはそれからだった。
地盤も何もない選挙に、あえなく父は敗れ、4年後に再出馬したがやはり落選した。私は子供ながらに、選挙に負けることの惨めさをつくづく感じながら、政治に対する関心を失うことはなかった。
そして選挙権を得る年齢になり、関心はさらに高まった。徐々に、選挙運動そのものに関わるようになり、様々な陣営にボランティアスタッフとして参加した。意識して選んだわけではないが、私が応援するのは決まって新人の、弱小陣営だった。
私自身も一度、市議選に出馬している。それは20代最後の挑戦で、大手企業を退職して臨んだ。政党や利益団体の支援もなく、徒手空拳で戦った。結果は最下位落選だった。
その時も多くのことを学んだ。それから私は、自分が議員になることよりも、考えの一致する候補者を支援し、当選させるために行動するようになった。そして当選のセオリーも掴み、陣営の指揮をとって勝利を掴んだこともあった。
思えばこの10年、多くの選挙に関わっている。関わる陣営の党派は一貫しておらず、選挙の規模もバラバラだった。自分から飛び込むわけでもなく、自然に巻き込まれていった。
以上のような経験を踏まえて言うと、選挙というのは外側から見ていても面白くない。逆に、陣営に少しでも関わると、途端に面白くなる。この面白さというのは、スポーツ観戦に似ている。
例えば私は、野球やサッカーに全く興味がない。しかし、知人が選手として出ていたり、地元球団が経営危機に瀕していたり、何か応援する「動機」があって球場に足を運ぶと、途端に面白くなる。
ビールでも飲みながら、熱狂的に声援を送る。球団公式グッズを買い、ルールもわからないのに論評する。その競技に詳しい人の解説に熱心に耳を傾ける。勝てば狂喜し、負ければがっかりする。
スポーツ観戦には熱狂しながら、選挙には無関心で冷ややかな人が多い。その人たちに言いたいのは、選挙とスポーツは同じだということだ。
公民の教科書に書いてあるように、「有権者として、自分の考えに近い政策の候補者に投票するのが民主主義社会」というのは建前に過ぎない。そこには、有権者が消費者で、政治家や政党がサービス提供者、という資本主義的な切り分けがある。
しかし私は、有権者は消費者ではないし、消費者であるべきではない、と考える。消費者に買わない自由があるように、有権者に投票しない自由がある。消費者と有権者の違いは、後者は「買わなくても=投票しなくても」、その選挙結果の影響を受ける点だ。
選挙は資本主義的な「市場」よりも、スポーツに近い。しかも、試合結果がサポーターの数や動きによって結果が変わるスポーツだ。
野球やサッカーで、サポーター(ファン)は客席から声援を送ることしかできないが、選挙ではサポーターも試合に参加できる。候補者陣営は、いかに多くのサポーターを巻き込み、動かすかを競うのだ。
ここで言う「選挙に参加する」とは何か。それは、必ずしも選挙事務所に入り浸ることではない。
自分が支援したい候補者を決め、その候補者への投票を呼びかけることだ。それも繋がりの希薄なネットに書くのではなく、同じ選挙区に住む友人知人、家族や親戚に呼びかけることだ。
そこまでやれば、選挙結果に歓喜し、あるいは落胆することになる。当選した議員の行動にも興味を持ち続けることになり、政治一般にも詳しくなる。次の選挙では「もっと応援しよう」「今度は他の候補者を支援しよう」と主体的に考えられるようになる。
選挙運動の現場は人と人のぶつかり合い。争いを好まない人は辟易することもあるだろう。しかし温かい声援を受けて感動する場面も多く体験できる。まさに人間ドラマの舞台だ。
選挙カーがうるさいとか、政治家なんて誰がなっても同じだとか、斜に構える前に選挙運動の現場に「参加」して、その面白さを知り、集団の強さと個人の無力さを実感して欲しい。
本山貴春(もとやま・たかはる)独立社PR,LLC代表。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会副代表。福岡市議選で日本初のネット選挙を敢行して話題になる。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。