【追悼】馬場能久氏、魂の言葉。

人生観
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令和5年5月7日、北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会(藤井守人代表)は、同会前代表で相談役だった馬場能久氏を偲ぶ会を開催した。偲ぶ会には同会会員の他、かつての同志、さらに九州各県救う会役員など関係者が参列した。

偲ぶ会では冒頭、生前の馬場氏による演説を集めた記録映像を上映。約20年に及ぶ馬場氏の活動と、その魂から発せられた言葉に聞き入った。

拉致被害者救出運動の同志であり、特定失踪者問題調査会の荒木和博代表は「ご不自由なお体で、あのエネルギッシュな姿勢、鋭い論評は自分にはとても真似できるものではありません」などと綴ったメッセージを寄せ、故人を称えた。

偲ぶ会では救う会福岡の役員・幹事など13名がスピーチに立ち、故人へ追悼の言葉を贈った。

前葛飾区議で日本国民党代表の鈴木信行氏も東京から駆けつけ、かつて同じ政治団体(維新政党・新風)の代表選を争った際のエピソードを披露。そのとき馬場氏が提唱した路線を、その後自ら歩むことになったと明かした。

救う会熊本と救う会佐賀からも代表者が登壇し、涙ながらに故人を偲んだ。

最後に、司会を務めた私も追悼の言葉を述べた。以下にその文章を掲げる。

僕にとって馬場さんは、社会に出て初めて出会った、尊敬できる大人でした。馬場さんこそが僕の真の師匠であり、僕の人生に最大の影響を与えた人です。

僕は馬場さんに多くのことを教わりました。馬場さんとの長い付き合いの中では、褒められたことも、叱られたこともあります。とくに政治に関しては、馬場さんは親子ほど歳の離れた僕に対し、常に本気で語り、僕も本気でぶつかりました。

あるとき、僕は馬場さんのお供をして熊本へ行きました。田原坂で西南戦争の古戦場を見たあと、天に逆巻くようにして枝葉を伸ばす杉の木を指差し、馬場さんは「本山はあの杉の木のように生きなさい」と言いました。

また馬場さんは、「維新」という言葉についてこだわりを持っていました。「維新とは何か。それは、植物が大地を突き破って芽吹くさまのことだ」と度々言っていました。馬場さんは日本の自然と風土をこよなく愛していました。

ある田舎の、山深いところに、たくさんの古い墓石が埋もれているのを見つけたとき、馬場さんは「これで良いのだ」と言いました。親を敬い、先祖を尊ぶことは絶対なのだと、馬場さんは繰り返し教えてくれました。馬場さんは認知症になったお母さんを、本当に大切にしていました。

馬場さんの言葉はいつも深く、ときに謎かけのようでもありました。会えば何時間でも天下国家を論じました。僕はいつも、馬場さんの言葉を自分の心で反芻していました。

僕が長年飲み込めずにいたのは、「国民を愛せ」という言葉でした。馬場さんは僕や、馬場さんのもとに集った若者たちに欠けているものを見抜いていました。最近ようやく、それが少し、わかるようになった気がします。

馬場さんが亡くなる一ヶ月ほど前、突然訪ねた僕に、また2時間近く、馬場さんはたくさんのことを語ってくれました。そのころには一日の大半を、眠った状態で過ごし、記憶も不鮮明になっていたのに、僕の目には、昔と変わらぬ馬場さんに見えました。

そのとき最後に言われたのが、「もっと日本のために、命を賭けろ」という言葉でした。

馬場さんと出会ってからの18年間。たくさんの出会いと別れがありました。僕らはたくさんのことに挑戦し、たくさんの挫折を経験しました。

馬場さんは亡くなったけれども、馬場能久の魂はここにあります。拉致被害者を救うこと。日本を再建すること。平等な人類社会を実現すること。「政治とは祈りである」という馬場さんの言葉そのままに、馬場さんの祈りは、これからも継承されることでしょう。

どうかこれからも僕らとともにあり、ともに戦ってください。さよならは言いません。馬場さん、本当にありがとうございました。

本山貴春

(もとやま・たかはる)選報日本編集主幹。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会事務局長。福岡大法学部卒(法学士)。CATV会社員を経て、平成23年に福岡市議選へ無所属で立候補するも落選(1,901票)。その際、日本初のネット選挙運動を展開して書類送検され、不起訴=無罪となった。平成29年、PR会社を起業設立。著作『日本独立論:われらはいかにして戦うべきか?』『恋闕のシンギュラリティ』『水戸黄門時空漫遊記』(いずれもAmazon kindle)。

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コメント

  1. 副島 美和 より:

    御人を今回初めて知り得ました。記事をありがとうございます。馬場さんの言葉をみんな聞いてほしい。

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