来日留学生数は第3位!「親日国ネパール」との意外な歴史的共通点とは?

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現在、世界には「親日国」と呼ばれる国や地域が、いくつか存在する。代表的なところでは台湾、タイ、ベトナム等東南アジアの国々が想起されるが、本稿ではネパールに焦点を当てたい。

親日ネパールの源流

昨今、日本に滞在するネパール人は、増加の一途を辿っている。

法務省が公開している直近の統計で、在留外国人数上位の国々は中国・韓国・ベトナム・フィリピン・ブラジルの5カ国だが、ネパールはブラジルに次ぎ6番目にあたる。

また、日本学生支援機構(JASSO)のデータによると、ネパールからの留学生数は24,331人。(平成30年度外国人留学生在籍状況調査結果)

全体(298,980人)に占める構成比は8.1%で、1位の中国(114,950人、40.2%)、2位のベトナム(72,354人、23.1%)には及ばないものの、韓国(17,012人、5.9%)、台湾(9,524人、3.4%)を上回り、第3位である。

(単位:人、%)

留学生は将来、母国と留学先の国や地域との「架け橋」として活躍することを期待されることも多い。日本留学を通じて「親日外国人」になってもらいたい存在でもある。

「ネパールが親日国である」と聞いても、俄にはピンと来ないかもしれない。しかし、今から約100年前、留学生を通じて既に両国間で交流の機運が芽生えていたのであった。

ネパールに関する情報を収集する中で、在ネパール日本国大使館の公式サイトで『明治のネパール人留学生』というページに辿り着いた。そこには留学生にまつわる内容を中心とした10編の文章と往時を偲ぶ写真が掲載されている。
np.emb-japan.go.jp

私はこれらの文章を通じて図らずも、日本とネパールの交流の原点を知った。本稿は主に同文章を参照しながら、日本とネパールの源流を遡ってみたい。

来日前夜

ネパールの正式な呼称は「ネパール連邦民主共和国」である。王政が廃止され民主制に移行したのは今から約10年前、2008年のことだ。

ネパールは長く、日本の将軍家にあたる「ラナ家」の治世下にあった。

それ以前、ラナ家が支配体制を確立するまでの約100年間、ネパールでは複数の門閥が入り乱れ、不安定な宮廷政治が続いていた。その混乱に終止符を打ったのが、ラナ家の創設者ジャンガ・バハドゥル(在任期間:1846~1856年、1857~1877年)である。

ジャンガ・バハドゥル

ジャンガ・バハドゥルに始まるラナ家君臨の約100年間(1846〜1951年)、政治的には安定が保たれていた。しかしそれは「封建制」という枠組みの中での安定であり、ネパールはいわば江戸時代の日本同様「鎖国」状態にあった。 

留学先としての日本

ネパールから最初の留学生が日本にやってきたのは20世紀初頭、明治35(1902)年のことである。なぜ、ネパールは同国の未来を嘱望された若者の留学先として日本を選んだのだろうか。   

上述のように、当時ネパールを統治していたのはラナ家であったが、一族間の権力争いが絶えなかった。そんな中、善政を敷いたのが首相デヴ・シャムシェル(在任期間:1901年5月15日~6月27日)であった。

デヴ・シャムシェル(左)、チャンドラ・シャムシェル(右)

彼は教育・社会福祉の面で改革を断行していたが、いかにして進んだ技術、人材を獲得すべきか考えを巡らせていた。そのような中、旧知のスワミ・プラナンダ・ギリを通じて日本を知ることになる。

ギリは日本やアメリカなどの先進国を訪問し、多くの知見を得ていた。そして彼はシャムシェルに対し、特に日本を称賛する話を多く聞かせた。さらにシャムシェルはギリの話や書物を通じて、明治維新を成し遂げた日本に深い関心を寄せていった。

当時の日本は「富国強兵」のスローガンの下、殖産興業により商業と軍事を一体化させ、封建的社会から近代国家へ変革を遂げた。シャムシェルが欧米ではなく、日本を留学先として選んだ理由は、日本が辿った近代化の過程と自国が目指す近代化の方向性に一致を見出したためである。

その後、1901年、デヴ・シャムシェルは、弟であるチャンドラ・シャムシェル(在任期間:1901~1929年)のクーデターにより首相の座を追われてしまう。しかし、アジアに於ける日本の勃興を感じ取っていた弟は兄の計画通り、8名の留学生を日本へ送り出したのであった。

日本とネパールの共通項

デヴ・シャムシェルがネパールと日本の共通点に気付いたことも、留学生の派遣先として日本を選ぶことに繋がった。この点について先ほどの『明治のネパール人留学生』では「3つの顕著な相似点」として下記が挙げられている。

(1)両国とも封建的君主による支配を受けていること(ネパールのラナ家、日本の将軍家)
(2)両国とも強大な隣国と戦争をしていること(筆者注:清・ネパール戦争=第一次1788~1789、第二次1791~1792、日清戦争=1894~1895年)
(3)ネパールも日本もいまだに君主制を敬っていること

私は上記3点に加えて、宗教的側面を付記したい。

ネパールは93の異なる言語や地域を持つ、100以上の民族が暮らす「多民族国家」である。そのような同国の宗教構成はヒンズー教80%、仏教9%、イスラム教4%といわれている。

ヒンズー教を日本の神道と比較してみると、「多神教」「自然崇拝」「宗教的寛容性」「特定の教義・聖典を持たない」といった多くの共通項があることに気付く。

例えば、元を辿るとヒンズー教の神々を由来とする日本の神様も存在する。仏教を媒介に、日本の神様に「変身」した神々であるが、私たちに馴染みが深いところでは、それぞれサラスヴァティーが弁財天に、シヴァが大黒天に、といった具合である。 

私は特に「宗教的寛容性」で通底している点が、両国の親和性に与える影響は少なくないと考える。

違いを超えて

翻って現在、外国人と接する際、日本人は往々にして、外面・内面を含め双方の「差異」に注目する傾向がある。たしかに「多様性」尊重の観点からも、お互いの違いを認識することは必要であるかもしれない。

しかし相互理解の入口として、お互いの共通項に着目することが、むしろ理解の幅を広げるのではないだろうか。

例えば、ネパール語と日本語は文法構成が同じである。主語・目的語・動詞の順になっており、単語を憶えて並べれば、それなりに意思疎通をすることができるのだ。(ただし、ネパール語で使用される文字=デーヴァナーガリー文字は難しいかも知れない)

私は我が国とネパールに少なからず共通点があることに、地理的・歴史的空間を越えた繋がりを感じずにはいられない。

日本とネパールに間に脈々と流れる交流の歴史。これからも、日本で、福岡で生きるネパールの人々との連携を深め、情報発信していきたい。

安部有樹(あべ・ゆうき)昭和53年生まれ。福岡県宗像市出身。学習塾、技能実習生受入団体を経て、現在は民間の人材育成会社に勤務。これまでの経験を活かし、「在日外国人との共生」や「若い世代の教育」について提言を続けている。

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