道鏡は本当に朝敵だったのか? 和気清麻呂を降格させた“本当の朝敵”は誰か(後編)

天平7年(西暦735年)にまだ皇太子にもなっていない、一人の内親王(年齢は数えで18歳)に過ぎなかった孝謙天皇(阿倍内親王)は、聖徳太子の霊と聖武天皇に対して『法華経』の講読を奉ることを決め、「衣服三十領・生絹四百疋・調綿千斤・長布五百端」を支出し、行信(編注:【ぎょうしん】生没年不詳・奈良時代の僧)に『法華経』講義をさせている。

なお、この行信は天平10年(西暦738年)、阿倍内親王の立太子と同じ年に律師となり、さらにその後は晩年まで法隆寺の再興に尽力したと伝えられている。彼の活躍は孝謙・称徳天皇の治世と重なっている。

また、『金光明経』の写経にも熱心であった。まだ10代であった内親王時代に既に1部全10巻を2回、つまり20巻分を写経している。数え20歳で皇太子になった後はペースこそ落ちるものの、天平15年に1部、天平16年に2部の写経を達成している。天平20年には「百部(金光明)最勝王経」の写経プロジェクトを開始した。

『金光明経』も『法華経』も鎮護国家の経典とされるものである。このことから判るように、孝謙天皇はかなり聖徳太子を意識しており、仏教によって国家を統治しようと考えていた。

聖武天皇の死後、孝謙天皇は皇太子であった道祖王を少年愛や女性関係を理由に廃位とした。彼を皇太子とするのは聖武天皇の遺言であったが、「自ら三宝に乞い」その結果「天下太平の字が現」れる吉兆があったことを以て道祖王の廃位を正当化している。

三宝、つまり、仏教の教えが自分の父親の遺言よりも優先される、という立場を鮮明にしたのだ。

同年に先述した橘奈良麻呂の乱が発生し、翌年孝謙天皇は淳仁天皇へ譲位する。淳仁天皇は藤原仲麻呂の早逝した長男の未亡人の再婚相手ということもあり、藤原仲麻呂を義理の父親同様に慕っていた。

藤原仲麻呂は光明皇后の甥でもある。孝謙天皇も母親である光明皇后の存命中は藤原仲麻呂と正面から対立はしていない。もっとも、譲位後の孝謙上皇は舎人親王への尊号を巡って光明皇后と対立するなど、「光明皇后・淳仁天皇・藤原仲麻呂」ラインとの距離感は表面化していた。

格差拡大を抑制し皇室の権威を上げた道鏡

光明皇后の崩御後の天平宝字5年(西暦761年)に病に倒れた孝謙上皇は、道鏡を重用するようになる。道鏡は祈祷によって孝謙上皇の病気を治したとされるが、それだけでなくサンスクリット語を得意とするなど、頭脳明晰な僧侶であった。

また、かつて孝謙上皇の皇太子時代の教育係でもあり、その後藤原仲麻呂と対立して地方の役職に左遷されていたものの、鑑真を日本に連れてくるなどの多大な功績のあった吉備真備を天平宝字8年(西暦764年)に造東大寺司長官に任じた。

同年、軍馬の指揮権を示す駅鈴(えきれい)を孝謙上皇が藤原仲麻呂から取り上げると、藤原仲麻呂は武力でそれを奪還しようとしたため藤原仲麻呂の乱が発生した。結果、藤原仲麻呂は朝敵として敗死する。

同じ「謀反人」でも民衆のために戦おうとした橘奈良麻呂は後に名誉回復措置が取られ、正一位に列せられている。一方、国家の私物化を推進し貧困に苦しむ民を増やした藤原仲麻呂については、そのような名誉回復措置は公式には取られていない。

が、それでも後世の歴史家は藤原仲麻呂に同情的である。なぜならば、藤原仲麻呂の作った「墾田永年私財法」や「公廨稲制」によって国家の私物化を推進した藤原氏が後世の歴史書を記していったからだ。

例えば、現在でも旧侯爵家として残る中山家も藤原氏の一族だが、その初代当主である中山忠親内大臣は著書『水鏡』において藤原仲麻呂の娘が上皇側の千人以上の兵士に凌辱されたことを、かなり印象的に記している。

これは、言ってみればオランダによるインドネシア植民地支配の罪については全く触れずに、日本軍による大東亜戦争中のオランダ人女性への性暴力だけを特筆して非難するようなものである。

インドネシアを植民地としたオランダに同情の余地は皆無であるように、藤原仲麻呂にも同情の余地は皆無であるが、藤原氏からすると藤原仲麻呂こそが自分たちの既得権益の生みの親な訳だから、最大限の同情をするわけだ。

孝謙上皇が重祚して称徳天皇となると、道鏡や吉備真備は「墾田永年私財法」を停止するなどの改革を行う。賤民への解放政策も推進され、奴婢に爵位が与えられる例まで出てきた。格差を是正して貴族の権力を弱め、仏教によって天皇の権威を上げようとしたのだ。

「宇佐八幡神託事件」の不審点

そんな道鏡に「朝敵」の汚名を貼られる直接のきっかけは、宇佐八幡神託事件だ。

まず、史料に基づいた事実関係をここで述べる。

神護景雲3年(西暦769年)5月に「道鏡を天皇にすると天下泰平になる」という意味の神託があった、と大宰府から朝廷に報告が入る。それを受けて称徳天皇は和気広虫という女性官僚に神託が本物か確認するため宇佐八幡宮まで行くように命じた。

和気広虫は健康上の理由によって辞退し、代わりに弟の和気清麻呂を派遣した。そして、清麻呂は次のような内容の神託を持ち帰った。

「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」

するとそれを聞いた称徳天皇は激怒し、和気清麻呂が虚偽の神託を持ち帰ったとして「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させるなどの罰を与えた。

この事件は良く「道鏡が皇位簒奪を企んだため、和気清麻呂がそれを阻止した」事件であると解釈される。しかし、そうした解釈にはいくつか不審点がある。

第一に、本当に道鏡は皇位簒奪を狙っていたのだろうか?

まず、最初の偽神託がそもそも本当に存在したのかどうかも怪しい。道鏡失脚後に記録が改竄された可能性があるからだ。

仮に、神託偽造事件そのものがあったとしても、その主犯が道鏡であったとする根拠はない。というか、むしろ道鏡が主犯だと不審である。

最初の神託が偽造だと言った和気清麻呂は、称徳天皇によって罰せられた。つまり、神託偽造は称徳天皇公認だったことになる。だが、仮に称徳天皇公認でそのような偽神託が作られたのであれば、どうして称徳天皇は道鏡に本当に皇位を譲らなかったのだろうか?

実際には、称徳天皇は偽神託の存在に関わらず(しかも、その偽神託を偽物だと指摘した人間を罰した=偽神託が本物だという立場を取っていた)、道鏡に譲位はしなかった。要するに、称徳天皇には道鏡に皇位を譲る気など、無かったのだ。

このことから、道鏡による皇位簒奪計画があったと言う話は、きわめて怪しいものとなる。

第二に、和気清麻呂は称徳天皇が崩御し道鏡が失脚した後も、名誉こそ回復したものの、実はそれほど重用されている訳ではない。むしろ和気氏は本来「真人」だったのが「朝臣」へと“降格”されている。

「真人」は最高位の姓(かばね)である。対して「朝臣」は二番目だ。だが、藤原氏は「朝臣」であった。和気氏は藤原氏よりも家格が上位であったのに、和気清麻呂の活躍によって忠臣として評価されるどころか、藤原氏と“対等”な立場へと引き摺り下ろされたのである。

この二つの謎を解く方法はないか。

ここで、改めて「どうして称徳天皇は、和気清麻呂を罰したか?」を考えてみた。

和気清麻呂の言う「無道」とは「壬申の乱」だった!?

そもそも和気清麻呂はこれまで藤原氏とは対立しており、称徳天皇に近い立場であった。彼を罰する政治的動機はない。

では、彼が持ち帰った神託の内容が原因なのか?やはり通説どおり、最初の偽神託を偽物と見抜いたからか?

いや、それだと不審だということは既に述べた。ならば何故、称徳天皇は怒ったのか?

ここで改めて、和気清麻呂が持ち帰った神託の結論部分を確認してみよう。

「無道の人は宜しく早く掃除すべし。」

ここで言う「無道の人」は本当に道鏡なのだろうか?

いや、道鏡が「無道の人」だと言うのは、彼が最初の神託を偽造した犯人だった時にのみ、該当する話である。そうでないとすると「無道の人」は別人、ということになる。

さて、ここで話は称徳天皇の崩御のこととなる。称徳天皇が崩御した後即位したのは、光仁天皇だ。そして、光仁天皇の息子が有名な桓武天皇である。

実は、称徳天皇と光仁天皇は大きく“血統”が異なる。

話は壬申の乱に遡る。天智天皇の息子である弘文天皇に対して天武天皇が勝利した。以降、男系では天武天皇の子孫が皇位に就いた。称徳天皇も天武天皇系である。天智天皇の男系の子孫は、皇位には就いていない。

が、称徳天皇の崩御後に天智天皇系の光仁天皇が即位したのだ。

光仁天皇は称徳天皇の異母姉である井上内親王を妻としている。井上内親王は元斎宮でもあり、天智天皇系の中では光仁天皇はもっとも優遇されていた。優遇されていたとはいっても、50歳になるまでは「無職」扱いで、57歳の時にようやく大納言に任じられる。

称徳天皇の義兄であるにもかかわらず遅い出世であるが、それだけ天智天皇系の皇族は警戒されていたのだ。そんな光仁天皇が、称徳天皇崩御後に突如として即位できたのは何故か?

ここで再び和気清麻呂の「神託」における「無道の人」の意味を考えてみたい。

当時の朝廷では、歴代天皇は即位の際に天智天皇の定めた「不改常典(ふかいのじょうてん)」を正統性の根拠としていた。つまり、律令国家の正統性の根源は、天智天皇にあったのである。

ところが、当の天皇の祖先は、その天智天皇の息子を武力で倒した天武天皇なのだ。「正統な天智天皇」の息子を武力で倒したのだから、まさに「無道の人」ではないか!

現代日本でも「今上天皇は北朝の子孫」という事実と「南朝が正統な天皇」という建前との矛盾が話題になる。現代日本から見て南北朝時代は数百年も前だが、奈良時代の人たちにとって壬申の乱は前世紀の話だ。

「天武天皇の子孫である天皇」という事実と「天智天皇こそが正統性の根源」という建前の矛盾は、奈良時代の知識人にとっては強く意識されていたはずである。

そう、和気清麻呂が持ち帰った神託は、次のように解釈された可能性がある。

「天武天皇系の皇族を皇統から排除し、天智天皇系の者を皇位に就けよ!」

もしもそうだとしたら、天武天皇系の称徳天皇が激怒するのは当然である。

というよりも、そう解釈されたからこそ、称徳天皇が崩御して和気清麻呂の神託が正しかったと認定された後、天智天皇系の光仁天皇が即位したと言える。

これがもしも「無道の人=道鏡」であるならば、称徳天皇崩御後に道鏡は神託通り「宜しく早く掃除」されていたはずである。だが、実際にはそうはならなかった。

道鏡の志を受け継いだ和気清麻呂

道鏡と藤原氏が対立していたとはいえ、藤原氏の全員が道鏡政権下で冷遇されていたわけではない。中には道鏡に取り入っている人間もいた。藤原百川もその一人である。

だが、彼は宇佐八幡神託事件以降、急に立場を変える。これまで藤原氏は天武天皇系の歴代天皇と癒着していたのに、急遽天智天皇系の白壁王(光仁天皇)へと急接近するのだ。

称徳天皇崩御後、吉備真備らは天武天皇系の皇族擁立を目指していたが、藤原百川主導で光仁天皇が即位した。光仁天皇側に恩を売った形となり、藤原氏は逆に権勢を深めることとなった。

そして、神託を持ち帰った「忠臣」和気清麻呂は刑罰こそ取り消されたものの、家格は上がるどころか降格される。

吉備真備は辞職(事実上の失脚)。道鏡は政治的権限をすべて失った。本当に皇位簒奪計画があればこの時点で処罰されているはずだが、実際には一切処罰はされずに造下野薬師寺別当への左遷という形になる。

左遷とはいえ、下野薬師寺は東大寺や観世音寺と並ぶ「三大戒壇」であるから宗教的権威は一切喪失していなかった。

こうした状況証拠からも道鏡による皇位簒奪計画の存在は疑わしいのであるが、一方の和気清麻呂はそうした道鏡にどう接していたのだろうか?

これについて、岡山県備前市の恵日山高顕寺に伝わる興味深い伝承がある。

写真:恵日山高顕寺、撮影:日野智貴

このお寺は何と、道鏡が創建したのだと言う。道鏡失脚後にそのような伝承をでっち上げるメリットは無い。この伝承は恐らく史実であろう。

そして、このお寺を守っていたのは和気清麻呂の一族であった、と伝わっている。

道鏡によって重用されながらも、風向きが変わると一気に光仁天皇擁立へと動き、さらに「墾田永年私財法」を再施行して国家の私物化を推進した、藤原百川たち。

対して、真の忠臣であった和気清麻呂は、神託問題では自分を取り立てた称徳天皇や道鏡には一歩も引かなかったものの、彼らの功績は功績として評価し続けていたのである。

今の時代にも、和気清麻呂の態度は思い出されるべきであろう。現実には、多くの自称保守は「和気清麻呂」ではなく「藤原百川」を真似ているように見えるが。

私の地元では民主党政権時代に副大臣まで出世していた人間が、自民党所属の議員となっている。和気清麻呂とは正反対の態度であろう。藤原氏による和気氏への仕打ちを思い出すと、今の時代の政界を見ても「本当の朝敵は誰か?」と問いたくなるものである。

日野智貴(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。関西Aceコミュニティ代表。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。





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