いじめを傍観する子供たちと、拉致被害者を放置する大人たち

安部有樹
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「人権」という言葉を手元にある辞書でひいてみると、「人間には当然与えられるとされる権利」と定義されている。例として「生命を保障され、自由・名誉などを享受する権利」と併記してある。

私が人権という言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、北朝鮮による拉致被害者の方々である。

数十年の長きに亘り、異国の地で囚われの身とされている状況を、人権侵害と言わずして何と言うのであろうか。同時に、被害者の方々の帰国を待つ肉親の方々の心痛は、想像を絶するものである。

ある時、人権に関するセミナーを受講する機会があった。テーマは部落差別に関するものであった。興味深い内容であったため、セミナー終了後、講師の方と個別に話をしたのだが、その際、私の意見として、「北朝による拉致は最大の人権侵害であると思う」という話をした。

すると、その講師の方は「拉致、部落差別を問わず、人権侵害を受けた人にとっては、(その行為が)、彼/彼女にとって最大の人権侵害である」という主旨の回答をされた。

近年は学校現場における「いじめ」も、人権の視点から議論されることがある。

内閣府が行った「人権擁護に関する世論調査」(平成24年8月実施)よると、子どもに関し起こっている人権問題は何かという問いに対し、最も多かった回答は「いじめを受けること(76.2%)」であった。(「虐待を受けること」(61.0%)、「いじめ・体罰や虐待を見てみぬふりをすること」(55.8%))。

昭和24年(1949年)以来、12月4日~10日は「人権週間」と定められ、人権に関するさまざまな啓発運動が各地で行われる(続く、12月10日~16日までは「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」とされている。これは、平成18年6月に「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」が施行され、国及び地方公共団体の責務等が定められたことによる)。

そのような中、同週間に併せて実施された「全国中学生人権作文コンテスト」で今年の内閣総理大臣賞を受賞した、ある中学生の作文を読む機会があった。

内容は、同生徒が自身のドイツでの実体験をふまえ、今の日本のいじめ対策は適切ではない、という主旨であった。

往々にして、この年頃の子どもたちは多数意見を支持しやすい。仮に、自分がそのように思っていなくとも「空気を読んで」多数派についてしまう。

日本ではいじめの当事者ではない生徒たちが、ただの「傍観者」になってしまっているという。今の日本のいじめ防止対策は、いじめを受けた子どもたちの救済を重視しており、「外野」から見ている子どもたちにはあまり焦点が当てられていないとの指摘には、はっとさせられた。

生徒によると、本人が通っていたドイツの学校では毎週末最後の授業時、学級会議が開かれていたという。そこでは、生徒たちが最近身の回りで起きた問題について議論、解決していたそうだ。

生徒は、日本の学校でもそのような活動を取り入れてはどうかと提案している。そのような過程を通じて、主体的に自分の意見を明確にし、相手に伝える術を身につけていくことができるというものだ。

子どもの世界は、大人の世界の縮図である。確かに上記のように、大勢側に就く、ただ傍から眺めていれば、難を逃れることはできるかもしれない。しかし、それは一方で、問題の当事者になることを避けることでもある。

学校教育ではこれまで、自分の意見を明確にすることを学んでこなかった。そして、想いを内に秘めたまま悶々と過ごしていれば、自分に火の粉が降りかかることもなかった。  

日本では古来、「言挙げ」はタブーとされてきた。言挙げとは、自分の意志を明確にすることである。『古事記』には倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東伐の途中、言挙げをしたことが、すぐ後の薨去につながったという記載もある。

しかし、やはり私は、北朝鮮による拉致問題は「最大の人権侵害」であると思う。直接的な交渉は政府当局に委ねるしかできないかもしれない。しかし、我々大人一人ひとりが当事者意識を持ち、解決に向けて何か少しでも行動することが求められている。

仮に自分の意志を明確にすることでその身が滅ぼうとも、今を生きる子どもたち、そして未だ見ぬ次の世代に恥じぬ生き方をしたいと強く思う。

安部有樹(あべ・ゆうき)昭和53年生まれ。福岡県宗像市出身。学習塾、技能実習生受入団体を経て、現在は民間の人材育成会社に勤務。これまでの経験を活かし、「在日外国人との共生」や「若い世代の教育」について提言を続けている。

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