三島由紀夫の絢爛華麗な世界観を詠む「豊饒の海」第三部『暁の寺』

小説
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第14回目の三島由紀夫読詠会は、「豊饒の海」第3部『暁の寺』を取り上げます。

「豊饒の海」第1部『春の雪』、第2部『奔馬』の圧倒的な完成度と評判は、読者に次作に対する大きな期待を抱かせました。

それに応えての第3部『暁の寺』。絢爛華麗な文章は、ほぼ完熟の域に達しており、どこを詠んでみても読詠の喜びを感じさせてくれるものですが、戦前のタイから物語が始まるのが、まず読み手の意表を突きます。

「豊饒の海」全4部作が起承転結構成であるというのは誰の目にも明らかでしょうが、三島由紀夫は、もう一歩踏み込んで、一霊四魂(和魂・荒魂・奇魂・幸魂)を企図したと述べています。

『暁の寺』は転の巻であると共に、奇魂(くしみたま)の作品でもあるのです。それを考えれば、タイからの開始も頷けると共に物語が大きく変化するのも必然でしょう。

そして、物語を大きく変える原動力として、『春の雪』『奔馬』では語られることのなかった仏教思想が大きく、それも裏打ちの形ではなく、表立って自身の世界観を伝える形で述べられています。

小説的手法としては本道ではなく、そこと二部構成である物語の間に、ある種の断層があるというのが、従来よりの批判点なのです。

確かに一理ありますし、前2作と比べて、この『暁の寺』が映像化・舞台化される機会が少ないのもそこに起因するのかも知れませんが、次の文はどうでしょうか。

この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが、小乗の経量部にいたって、あたかも香水の香りが衣服に薫じつくように、善悪業の余習が意志に残って意志を性格づけ、その性格づけられた力が因果の原因になるという、「種子薫習」の概念が定立せられて、これがのちの唯識への先蹤をなすのだった。
(『暁の寺』より)

解説というには、余りに美しい文章であり言葉の響きだと感じ入るわけで、やはり傑作の名に相応しいものであると改めて思います。

この『暁の寺』を読詠するためには、仏教思想を知っておかねばならないのでしょうか。それは不要だと思います。読詠は理解するものではなく、心で感じるものだというのが私の考えです。

それは楽譜が読めなくても、和声法・対位法などの音楽理論を知らなくても、人は音楽に大きな感動を覚えるのとまったく同じなのです。

三島由紀夫を体得するためには、ただただ詠めば良いのです。この三島の大傑作を共に詠み、共に語りましょう。未読の方も大歓迎です。

三島由紀夫読詠会@福岡『暁の寺』(「豊饒の海」第三部)

日時:令和2年9月24日(木)19:00-20:30
会場:福岡市(詳細はお問い合わせください)
会費:無
詳細:reimeisha.jp/news

石原志乃武

(いしはら・しのぶ)昭和34年生、福岡在住。心育研究家。現在の知識偏重の教育に警鐘を鳴らし、心を育てる教育(心育)の確立を目指す。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会幹事。福岡黎明社会員。

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