社畜にならないための学問!?「リベラルアーツ」って何?

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いま大学教育において、「リベラルアーツ」が注目されている。

では、リベラルアーツとは、そもそも何か。日本語では「教養教育」と近似なものとして理解されている。

大学における教養教育というと、専門教育に進む前の一段低い教育という意味合いがあった。また往々にして教養は「物知り」「知識量が豊富」と同義に捉えられることもある。

しかし、リベラルアーツは、それらとは性格を異にするものだ。

大学入試の変化

最近の大学入試は科目数が減少傾向にある。結果、受験生は入試に出る科目のみを集中して勉強することになる。

この弊害として例えば、理工系で数・物・理のみにやたらと詳しかったり、文系で法律・経済は詳しいが、科学技術・文学も知らなかったり、という学生が出てきてしまう。

もちろん専門性が高いことは評価されるべきことである。しかし、特定の分野しか知らない学生が実社会に出た際、昨今の社会に横たわる複雑極まりない方程式を解くことが、果たしてできるのだろうか。

そこで求められてくるのは科目横断的な解決策の見出し方であろう。

リベラルアーツは自由市民の証

リベラルアーツは、どのようにして生まれたのか。リベラルアーツという言葉そのものは、
ラテン語の「artesliberales(自由の諸技術)」を英訳したものであり、元々の語義は「人を自由にする学問」である。

日本に於ける「自由」は、基本的人権の類型とも関わりが深い。国家からの自由である「自由権」、国家への自由といわれる「参政権」、そして国家による自由「社会権」である。

古代ローマ時代に於いても、奴隷の存在があった。ただ、現在我々がその言葉から連想するものとは、性質を異にしていたようである。

確かに、能力が劣る奴隷は、農場や鉱山などで肉体労働者に使役されていた。また、しかし、教師や医師などの知的労働も奴隷が担っており、ローマ市民にとって、奴隷は貴重な財産と位置付けられていた。

ローマ市民は、労働によって報酬を得る職業を卑しいものと看做していた。知的労働も含めて、奴隷の仕事が多岐に亘っていたのはこの為である。

奴隷と自由人を分かつもの、それは「精神的な自由」であった。そして、奴隷ではない自由人として生きるための学問、それがリベラルアーツであった。

人としての基礎を作るための学び

古代ギリシャからローマに受け継がれたリベラルアーツは、合計7科(セブンリベラルアーツ)で構成される。さらに、それぞれ言語に関する3教科(文法、修辞学、弁証法(論理学))、数学に関する4教科(算術、幾何学、天文学、音楽)上述の7科として確立されることになる。

なお、音楽が数学に含まれるのは、紀元前8世紀、古代ギリシャの数学者ピタゴラスが、音程は周波数比で成り立っていることを発見したことにまで遡る。

その後、時代が下り、紀元前5世紀、プラトンは自身が創設した学園(アカデメイア)で、音楽を数学の一環として教授するようになった。そして17世紀半ばにイギリスを経て、アメリカに継承されていった。

そして現在、リベラルアーツを学ぶことができるアメリカの大学では、人としての基礎を作るための学びとして、専門学科、職業課程とは区別されている。

専門職はAIで代替可能になる

2015年、野村総研は601種類の職業ごとに、コンピューター技術による代替確立を算出したレポートで「日本の労働人口の49%が人口知能やロボット等で代替可能」という報告をまとめた。

これは2013年、「The Future of Employment」を著したオックスフォード大学のオズボーン准教授、フレイ博士との共同研究によるものである。

野村総研のレポートでリストアップされた100の職種を見ると、その多くが専門的職だ。

元々「余人をもって代えがたい」専門的能力を持っている訳であるから、機械では代替し得ないマネジメント能力、リーダーシップなどを身に付けることでAIによる代替から「自由になる」ことができるはずである。

高校1年の「文理選択」

私は10年ほど学習塾の運営に携わっていたことがある。塾には中学受験を考える小学生から大学受験の浪人生まで幅広い学齢の児童・生徒が通ってきていた。

受験の時期が近づくと、塾生はもちろん、保護者とも進路について面談を行うことになるのだが、そのような中、特に高校1年次の進路指導について、ある時から違和感を覚えるようになった。

その原因は、高校1年次における「文理選択」にあった。

高校1年生は、秋口になると文理選択、つまり文系と理系いずれのコースに進むのかを決めなければならない。

例えば「何が何でも弁護士になりたい」と思えば、法学部に進むために文系を選択すればよい。「医師である親の後を継ぐ」とい生徒であれば必然、理系の道に進むことになる。

しかし、高校に入学して僅半年かそこらで、将来目指すべき方向が明確になっている生徒は、決して多くはない。

そうなるとコース選択は必然、理数系が得意だから理系、逆に、理数系が苦手だから、という「アンチ理系」の理由で文系というように、科目の得手不得手が基準となってしまう。

大学は就職予備校?

私は、大学がただ単に「就職する前段階としての存在」になることは、如何なものかと考えている。

巷では「就職に強い大学」を特集する雑誌があったり、「就職率〇〇%」「就職者の内、○○%が大手企業への就職を実現」といった実績を謳ったりする大学を目にする。

もちろん、大学は出たけれどいわゆる「NEET」では、当人にとっても社会にとっても人的損失である。

しかし、日本に於ける「働く」という概念については「大学まで行って(この仕事)」「大学に行った以上は(この企業)」といった、言わば「大企業神話」のようなものが、未だに根強く残っているのではないか。

もちろん大企業には、大企業と呼ばれる理由がある。それは、仕事の内容然り、充実した待遇面然りであり、さらには大企業となるに至った歴史であろう。

ただ、思考の面で硬直した現状を変えるためには「学び」というものを、より柔軟に考えることが求められる。

自分のための学び

これまでのように、過去の成功体験のみに依拠するばかりでは解が見いだせない時代、リベラルアーツのような学びが、必要であると言えよう。

孔子は「昔の人は、自分の為に学んだ。今の人は、利益のために学ぶ」といった。私は日本を含めた東アジアに共通する学びの源流は、孔子の言う自分の為の学びではないかと思うのである。

今後、日本の大学が、本来的な意味においてリベラルアーツを標榜するのであれば、それは日本の学びの在り方を変え、ひいては、成熟社会に相応しい「精神的に自由な」人間形成に繋がるものと確信する。

安部有樹(あべ・ゆうき)昭和53年生まれ。福岡県宗像市出身。学習塾、技能実習生受入団体を経て、現在は民間の人材育成会社に勤務。これまでの経験を活かし、「在日外国人との共生」や「若い世代の教育」について提言を続けている。

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