道鏡は本当に朝敵だったのか? 和気清麻呂を降格させた“本当の朝敵”は誰か(前編)

日本の歴史で「極悪人」を挙げるとすれば、誰か。

無論、歴史上の人物の多くは良いこともすれば、悪いこともしていた。しかし、後世に「良いこと」が殆ど伝わらず「悪いこと」しか伝わっていないような人間も、存在する。

少しでも歴史に詳しい人であれば、9割9分「道鏡」「平将門」「平清盛」の3人に“悪いイメージ”を持っているのではないか。

巷間ではその3人には「朝敵」のレッテルを貼られているし、事実を淡々と記述している風を装っている歴史教科書においても、この3人の「功績」など殆ど記されていない。

だが、私はこの3人は「スケープゴート」にされたと感じる。

そもそも、この3人は「敗者」だ。彼らを“断罪”した「勝者」たちは、本当に「善人」で「忠臣」だったのか、冷静に考える必要がある。

弓削道鏡。学校教育においても「皇統簒奪を狙った人間」として評価されているが、その真相はどうなのであろうか?

将門も清盛も「三分の理」はあった

本題に入る前に、平清盛と平将門について見ていきたい。

平清盛は彼を主人公にしたNHK大河ドラマが「史上最低」の視聴率を記録したことでも、知られる。彼への悪評価は、お茶の間にまで浸透しているのだ。

『日本外史』では平清盛の息子である平重盛の次の発言が記されている。

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」

つまり、「天皇への忠義」と「清盛への孝行」とを両立させることは出来ない、というものであるが、実はこれは後世の史家が記したものであって本当に重盛が言ったという根拠はない。

いずれにせよ、「天皇」と「清盛」とを対立する存在、いわば「平清盛=朝敵」という歴史観が存在したことは、事実だ。

公家の間では「平氏の先例は先例に非ず」と言われていた。「先例重視」の公家にとっても、平清盛のしたことは例外であったようだ。

私がこうした評価に疑問を抱いたのは、日蓮聖人の御書(編注:【ごしょ】日蓮が執筆した書状や著作。日蓮を宗祖とする宗派・教団では教義・聖典としている)を確認したときである。

日蓮聖人は繰り返し「治承・寿永の乱」と「承久の乱」について、触れている。

前者はいわゆる源平合戦。その結果、安徳天皇は事実上戦死という形の崩御となられてしまった。

後者は鎌倉幕府の手によって現役の天皇陛下と後鳥羽上皇を始めとする複数の上皇陛下が流罪になるという事件であり、日蓮聖人はこれを「先代未聞の下剋上」としている。

言われてみれば、そうだ。平清盛は直接陛下に歯向かったわけでは、無い。しかし、鎌倉幕府(その前身である源氏たちも含む)は武力で陛下に歯向かい、殺したり流刑にしたりしているのだ。

そう考えると、平清盛よりも源頼朝や北条義時の方が遥かに「朝敵」であり、「極悪人」だったはずだ。

また、鎌倉幕府の「功績」として教科書に記されている「地頭の設置」も、実際には平氏政権が既に導入していたものである。

にも関わらず、平清盛と比べて鎌倉幕府側の面々には好印象が残っている。「歴史は勝者が作る」という典型だろう。

平将門についても、確かに「新皇」を名乗ったのは客観的に見て朝敵の行為であるが、彼が「新皇」を名乗ったのは桓武天皇の五世孫だったからである。

現在、女系天皇を巡る議論が存在しているが、平将門は立派な「男系男子」だ。おまけに、皇籍復帰が囁かれている現在の旧宮家の人間よりも、皇統に近かった。五世孫の即位については継体天皇の先例もあった。

そして、肝心なことは、当時の朝廷は実質的に藤原氏に乗っ取られていたということだ。藤原氏は時の天皇の意向すらも無視する、まさに「朝敵」ともいうべき権力者であった。

平将門も平清盛も、こうした藤原氏の支配体制を前提にして考えないと、一方的な評価になってしまうだろう。例えてみれば、河野洋平元官房長官の『河野談話』や安倍首相の『日韓慰安婦合意』(ちなみに、二人とも自民党総裁)を非難せずに、一方的に野党の「慰安婦」問題での言動を非難するようなものである。

言うまでもなく、最終的に敗北した平将門や平清盛は「野党」であり、対して、藤原摂関家や鎌倉幕府は「与党」だ。野党による不敬行為も問題だが、与党が朝敵であることはその百万倍問題である。

「道鏡批判」の裏に透ける“皇室軽視”の思惑

道鏡も平将門同様、皇位簒奪を目指していたとされる。道鏡は完全に臣下の出身であり、それが事実であるとすれば平将門とは比べ物にならない不敬行為であり、確かに「朝敵」だと言える。

「桑を指して槐を罵る」という諺がある。道鏡は「朝敵」として後世の史家によってさまざまに非難されてきたが、道鏡批判の中にはとてもではないが「尊皇心」の欠片もないようなものが含まれている。

その甚だしいものは、時の女帝である称徳天皇と道鏡の間に肉体関係があった、というものだ。

念の為に言っておくと、これは何の根拠もない俗説である。最近、ネット上でふと道鏡事件について検索していると、いわゆるネトウヨとされる人までもがこの俗説を信じているらしい、と知り仰天した。

同時代史料に道鏡と称徳天皇の肉体関係を示すものはなく、あるのは後世のフィクション色の強い史料のみである。いわば、週刊誌の皇室スキャンダルと同類だ。そのようなものを信じる人間が「保守」を名乗るとは、烏滸がましいことである。

これらは「道鏡批判」を装った「皇室批判」とする解釈も可能なものであった。少なくとも、こうした俗説の流布には藤原氏が深く関与しており、後世では江戸幕府の支配下でこの俗説は再生産されている。

実は、道鏡批判は藤原仲麻呂擁護とセットで行われてきた。

藤原仲麻呂も奈良時代に詳しい方ならばご存じだろうが、彼は道鏡や平将門のような「未遂犯」ではなく、「既遂犯」であった。そして、道鏡がどうして称徳天皇に重用されたのか、それには藤原仲麻呂が深く関与している。

律令国家を破壊した元凶・藤原仲麻呂

道鏡について述べる前に、彼が権力を握る以前の歴史をおさらいしたい。

称徳天皇は二度目の即位であり、一度目は「孝謙天皇」と呼ばれている。

孝謙(称徳)天皇は奈良の大仏で有名な聖武天皇と光明皇后の娘だ。女性で初めて皇太子となり、聖武天皇から譲位を受けて即位した。実は、東大寺建立の時に即位していたのは孝謙天皇であり、その頃の聖武天皇は既に譲位して上皇となっていた。

孝謙天皇の治世下で目立つのは、不純異性交遊や少年愛の嫌疑で失脚した皇族の多さである。一応補足しておくと、古代人が性に寛容だったというのはフェミニズム史観による歴史改竄の最たるものであり、『養老律令』では婚前交渉が発覚すると問答無用で強制離婚となるなど、少なくとも建前としては性に厳しい法体系ではあった。

が、本音と建前はしばしば違う。建前通りの運用をしようとした点からは、後世の評価とは真逆に、孝謙天皇は潔癖な性格だったと推察できるのではないか。

無論、これは孝謙天皇の政治基盤の脆弱さを示すものでもあった。

孝謙天皇にとって即位後最初の大試練は、橘奈良麻呂の乱であった。孝謙天皇即位直後から藤原仲麻呂と橘諸兄の対立が表面化しており、橘諸兄が失脚・死亡した後、橘奈良麻呂は大規模な造反計画を立てていた。

この計画は未遂に終わったが、単なる宮中クーデターではなく地方の軍隊を動かすことも含め、かなり綿密に寝られた大規模な反乱計画であった。中央から地方まで数多くの有力者がこの反乱計画に関与していたのである。

これは、橘奈良麻呂の掲げた「大義名分」が正しかったことも理由の一つだろう。謀反の容疑で取り調べを受けた橘奈良麻呂は容疑を否認するどころか

「今の朝廷は苦しんでいる民衆の生活を救おうとせず、そのための予算を大仏建立のような無駄な事業に割いている!」

と、自分の信念を述べた。それだけ当時の日本では格差が広がっていたのである。

そもそも、本当に律令が守られていれば貧困など存在しないはずであった。現在では何故か学校教育で律令制と言うと「朝廷による強権的な支配」であるかのように語られているが、それは律令制に対する誤解、否、曲解である。

律令体制下において全ての国民には農地が支給され、租税は収穫の約3%であった。女性や奴隷にも農地が支給されるなど同時代の他国には例のない先進的な政策であり、貧困層が生まれないようにしていた。

男性は女性よりも支給される農地が広い分、租に加えて「庸」「調」「雑徭」と言った税負担もあったが、これら全てを合わせても税負担は収入の約1割程度であったと考えられる。さらに農地は死後に全て国庫に返還されるので、格差も最低限に抑えられていた。

これを崩したのが、藤原仲麻呂だ。まだ聖武天皇の御代であった天平15年(西暦743年)に、当時民部卿(今でいう厚生労働大臣)であった藤原仲麻呂の主導で「墾田永年私財法」が制定された。

これは、表向きは「自分で開墾した土地は、永久に自分とその子孫のものになる」と言うもので、農民の勤労意欲を上げるための法律とされた。現行の歴史教科書でもそのように記されているが、実はこの法律には重大な「但し書き」がある。

それは、開墾した土地の所有できる面積に、身分による制限があると言うものである。つまり、一見すると「農地所有の自由化」であるかのように見えるが、その実態は「貴族による農地独占」を目的とした悪法であった。

これにより「一君万民」という律令国家の原則は崩れ、格差が拡大した。さらに、藤原仲麻呂は天平17年(西暦745年)に「公廨稲(くがいとう/くげとう)制」も導入した。

公廨稲とは、今の言葉で言うと公的融資制度である。以前から出挙と言う地方の国府による融資制度はあったが、公廨稲制の特徴はその利子収入をなんと、地方の役人の収入にできるというものであった。

つまり、簡単に言うと「庶民に高い利子で多額の借金を貸し付ける(原資は税金)と、自分の給料が増える」と言うものであり、言うまでもないことだがこの制度を悪用して稼ごうとする役人が急増した。地方役人の長である国司は「儲かる仕事」と見做され、一方で貧困に喘ぐ庶民が急増した。

格差拡大、貧困増大、世情不安…藤原仲麻呂の行為は、律令国家の理念を崩壊させるものであった。そのような中、天平勝宝元年(西暦749年)に即位した孝謙天皇にとっては律令国家の立て直しが至上命令であった。

聖徳太子モデルに「仏法による統治」を目指した孝謙天皇

称徳(孝謙)天皇と道鏡の間の前述のような俗説は、称徳天皇が個人的な理由で道鏡を重用したという前提に立っている。しかし、実は称徳天皇の「仏教重視」政策は、まだ孝謙天皇として即位する前、10代の頃からの方針であった。

そのことを論じたのが勝浦令子教授の論稿『称徳天皇の「仏教と王権」:八世紀の「法王」観と聖徳太子信仰の特質』(史学雑誌、1997年)である。以下、この論考を基に孝謙天皇の信仰歴を確認してみたい。

(続く)

日野智貴(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。関西Aceコミュニティ代表。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。





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