今回、第7回を迎える「三島由紀夫読詠会」は、『潮騒』を採り上げます。この『潮騒』という作品ですが、何度も映画化されており、実際に目にした三島作品ということでは、おそらく最も多くの方が接したものではないでしょうか。
しかし、これだけ有名な作品でありながら、専門家による文学的評価は決して高いものではありません。およそ三島由紀夫の小説らしからぬもの、意図的に書いた駄作という厳しい評価もあります。しかし、本当にそうでしょうか。その真偽は、皆さんがこの作品を読詠し、自らの感性で判断して欲しいというのが、今回の読詠会に於ける私の思いの一つです。
例えば、「銭湯のペンキ絵みたいな陳腐で伝統的風景」と評論家の奥野健男が酷評した冒頭の文章ですが、確かに目で追えば、或る意味、紋切り型の定型文のような描写の要素が無い訳ではないのでしょうが、詠んでみれば、いささかの緩みもない凛と張った美しい調子、非常に優れた文章だと私は感じているのですが、いかがでしょうか。
確かに『潮騒』は、仮面の告白のように、特異なテーマを扱っている訳でもなければ、『金閣寺』のように突き詰めた思索がある訳ではなく、『豊穣の海』のように、滔々と流れる大河のような深々とした味わいがある訳ではありません。健康的過ぎるほど健康的な若い男女が織りなす清新で溌剌とした純愛物語なのです。
『潮騒』を読んで、三島らしからぬ作品であるとは、誰しもが感じることでしょう。三島由紀夫自身も制作動機として
「何から何まで自分の反対物をつくろうという気を起し、まったく私の責任に帰せられない思想と人物とを、ただ言語だけで組み立てようという考えの擒(とりこ)となった」(『十八歳と三十四歳の肖像画』)
と記しています。
私も、この『潮騒』という作品に、常の三島由紀夫ではないものを感じますが、それは本名である平岡公威の心です。この『潮騒』という美しい物語は、あの白皙の美青年であった平岡公威の素直で優しい心の直接の反映であると思います。今回のサブタイトルを「平岡公威の純情を詠む」としたのは、そうした意図です。
三島由紀夫は、この『潮騒』発表から2年後、『金閣寺』を発表し、ボディビルを始め、肉体改造に着手する訳で、いよいよ“三島由紀夫”に成り切る決心を固めていくのです。
『潮騒』は、三島由紀夫以外の人格、平岡公威からの訣別を企図した作品だったのかも知れないと、私は感じる時があります。その末尾は如何にも三島由紀夫らしいもので、この作品を単なるハッピーエンドで終わらせておらず、これをもって「平岡公威から三島由紀夫への変貌の意図」を明確に読者に宣言するものであろうかと私は推察するのです。
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石原志乃武(いしはら・しのぶ)/昭和34年生、福岡在住。心育研究家。現在の知識偏重の教育に警鐘を鳴らし、心を育てる教育(心育)の確立を目指す。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会幹事。福岡黎明社会員。