「人間にとって、生きることも大切だが、死ぬこと、それも、よく死ぬことは、もっとたいせつなのだ」と、マザー・テレサは言ったそうである。
「よく死ぬ」とは、どういうことだろうか。
ありていに言えば、「悔いのない人生を送った結果の死」と言えるであろう。しかし、そのように臨んだとしても皆が皆、悔いのないと言い切れる人生を送れるとは限らない。むしろ、この世に何らかの未練を残して死ぬ人の方が多いのではないか。
内閣府の調査によると、高齢者の半数以上が最後を迎えたい場所として「自宅」を希望していることが分かっている(下図)。
ただ、現実はどうであろうか。下図のとおり、1951年と直近2014年の割合を比較すると、「死亡の割合」の自宅と病院のそれは、完全に逆転している。高齢者が「終の棲家」としたい場所として最も多いのが「自宅」であることを考えると現実と実際の乖離は、やはり大きいと言えよう。
では、高齢者が望む最後の迎え方を実現する(これもある意味で「よく死ぬ」ことといえるのかもしれない)には何が必要なのか。
制度的な拡充は言うまでもない。例えば、厚労省は在宅医療関連講師人材養成事業を行っている。
また、どれだけ本人が在宅で「看取られること」を望んでいるとしても、家族や兄弟、親戚を含めた周囲の理解というものが欠かせない。
日本では(日本だけではないかもしれないが)、とかく高齢者や介護に纏わる事象は、高齢者「問題」、介護「問題」と、「問題化」されてしまいがちだ。
もちろん、それ自体は決して文字通り「綺麗ごと」だけでは終わらない対処すべき「問題(課題)」であるかもしれない。両親や夫婦のように最も親しい間柄であるからこそ、介護する方、される方の双方にとって、辛いものである。
弟子から、「死ぬこと」について聞かれた孔子は次のように諭した。「生きることも分からないのに、死ぬことなど分かるはずがない」。
死は常に生と隣り合わせである。一人の人間にとって、今を一生懸命に生きた結果、「よく死ぬこと」ができれば、それが本望であると考える。