誰よりも早く倒幕を唱えた平野國臣 銅像前で生誕祭が挙行される

文化
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平成31年3月23日、平野國臣銅像(福岡市・西公園)前で「平野二郎國臣生誕祭(没後155年・銅像再建55周年祭)」が開催され、遺族や地元の有志ら約100名が参列した。祭典では剣術、鎖鎌術、杖道の演武や、筑前琵琶などによる戯曲が奉納された。

杖道神道夢想流による演武

筑前琵琶や尺八の演奏で國臣の生涯を語る

勤王の志士・平野國臣とは

平野二郎國臣(西暦1828〜64年)は福岡藩士で国学者。28歳のとき藩命により長崎の警備に赴き、オランダ人などを通じて海外情勢を知り、「日本も植民地化される」と強い危機感を抱く。

30歳の時「國臣」と名乗るようになる。藩主に建言して謹慎処分を受ける。まもなく、当時の日本では最も早く「倒幕論」を唱えるようになり、翌年には脱藩して上京。

平野國臣 肖像画

勤王僧・月照と西郷隆盛を薩摩藩に送り届けるも、薩摩がこれを受け入れず月照は入水自殺する。その際、ともに入水した西郷を蘇生させたのが平野國臣だった。

公武合体策を推進する薩摩藩に倒幕を働きかけるも容れられず、その頃詠んだ歌が有名な

我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば 烟はうすし櫻島山

である。

その後も倒幕のため朝廷や各藩に盛んに働きかけ、たびたび投獄される。35歳で投獄された際には筆記も禁じられたため、和紙を捻って「こより」にし、米粒で台紙に貼り付けて文字(紙捻文字)にした。紙捻文字でも多くの和歌や論文を書いた。

その後、勤王派の工作が功を奏して朝廷に対する長州藩の発言力が強まり、國臣も釈放され、朝廷に取り立てられる。しかし会津藩と薩摩藩が結託して長州を追放した「八月十八日の政変」(1863年)によって居場所を失い、勤王派の決起「生野の変」に連座して投獄される。

平野神社(福岡市中央区)

翌年、投獄されていた京都で火災が発生し、逃亡を恐れた役人により殺害される。國臣、37歳だった。倒幕が成ったのは、そのわずか4年後だった。明治24年には正四位が贈られ名誉回復する。大正4年に銅像建立、昭和27年には國臣を祀る「平野神社」が創建されている。

(撮影・文 本山貴春)

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