毎年11月23日に筥崎宮(福岡市東区)で三島由紀夫・森田必勝を追悼する慰霊祭「福岡憂国忌」を主催している福岡黎明社(黒田光弘代表)は、西暦2020年の没後50周年に向けて「義挙50周年プロジェクト」を開始すると発表した。
その一環として、三島文学の朗読会を平成31年3月より毎月開催する。朗読会は「三島由紀夫読詠(どくえい)会」と銘打ち、大学教員で心育研究家の石原志乃武氏が講師を務める。
以下、石原志乃武氏による寄稿を掲載する。
「三島由紀夫読詠会」開催にあたり
「読詠」という言葉は、この会が初めて使うものだと考えています。
世に三島由紀夫読書会は数多くあり、すでに学識豊かな方々が、三島由紀夫について様々に語っておられます。
私も、主催者メンバーも文学の専門家ではありません。むしろ「読詠会」参加者の中に、私たちよりも三島由紀夫の小説について詳しい方もいらっしゃるかもしれません。
この「読詠会」には、いわゆる朗読会という言葉から想像されるような要素(例えばテキストを決めて輪読し、講師が解説をするというもの)が全くない訳ではありません。
しかし通常の朗読会とは少し毛色の違ったものになるでしょうし、逆に、であるからこそ開講する意味も出てくるのではないかと思っております。読詠という言葉は、そうした世にいう読書会とは少し違うという宣言の意も込めて付けさせて頂きました。
では、読詠とは何か。それは、ただ読むのではない、「心持ち調子を張って、抑揚を十分に付けて、役者、それも古典演劇の舞台役者が台詞を読み上げるように読もう」そして「そこから生まれてくる感銘を共に味わおう」という意味です。
音楽に例えると、通常の読書を「楽譜を読む作業」とすれば、読詠はその楽譜を「実際に音を出して演奏する」という行為に当たるものです。
三島文学は「声に出して詠んで、さらにその輝きを増す」というのが、私たちの想いなのです。
私の個人的な体験を述べさせてください。
私は昨年11月23日、筥崎宮において、三島由紀夫の最後の作品の一つ「檄文」を奉読させて頂きました。
「檄文」は、世界レベルの才能を持った方が、その命と引き換えに書いた文章です。充分に練習せねば失礼に当たると思い、私は2か月近く、練習に打ち込みました。
そうすると、従来「遺書」としてのみ理解されてきた檄文が、実に考え抜かれた構成と音律によって作り上げられたものであるかが、愚鈍な私の胸にも響いてきたのです。
例えば檄文中のこの部分、
「政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった」
ここだけでも、太字を強調し、下線を引いた部分を「本当に歯噛みをする思い」で詠みあげれば、魂が高揚していくのが直ぐにでも感じられるはずなのです。この「高く張った調子」は、檄文の冒頭から末尾まで貫かれています。
そうして迎えた当日、私は檄文を一つの作品として詠みあげました。結果は、読んだ私自身がその凄さに唖然とするものでした。会場ですすり泣かれる方々がいたのです。
私はもう三島由紀夫が生きた年齢をずっと超える年齢となってしまいましたが、不肖にして、自分のスピーチで人が泣くなど経験がありません。世界レベルの才能とは、これほど凄いものなのか。私は素直にそう思いました。
言うまでも無いことですが、私が上手く喋ったわけではありません。全ては三島由紀夫の文章の力なのです。
中でも、檄文というものは、本来「人に聞かせるために書かれたもの」です。この檄文の真価を認識するためには、ある程度以上の音量(声量)で「詠む」ことが不可欠だったのです。
聴覚芸術たる音楽の楽譜に書き込まれた、アレグロ(速く)フォルテ(強く)といった表情記号や強弱記号を想起していただきたいのですが、曲のテンポ・音量は曲想の表出であり、同じメロディーでもテンポ・音量が異なれば、曲は全く異なる相貌を示すものです。
ベートヴェンの運命交響曲の冒頭を、弱く遅く演奏すればどのような感じになるでしょうか。それでも人は「衝撃的な感銘」を覚えるでしょうか。
人に聞かせるという表現行為において、音量は表現の優劣に直接関与する要因です。
逆に、神に音楽が捧げられるときには楽曲に音の強弱や速度の伸び縮みは殆ど消失します。バロックあるいは更にそれ以前の西洋楽曲がそうですし、日本の雅楽や祝詞もそうなのです。
さらに身近な例を援用すれば、聴覚芸術における音量とは、料理における調理温度に近いものがあるというのが私の考えです。
ある料理が最も美味しく食べられる調理温度があるように、ある言葉に対する、最も適切な音量が聴覚芸術には必ず存在するのです。普通の音量を持って平坦な調子で読んでいく檄文とは、冷めたラーメンを食すようなものであり、或いは溶けたアイスクリームを飲むようなものなのです。
いずれにせよ真の味覚からほど遠く、檄文の真価が不当に低く扱われて来ました。
例えば、昨年11月に出版された大澤真幸氏著『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)、においても、「檄文や演説の内容があまりに浅くつまらない」と酷評されているのですが、これらは檄文が持つ「聴覚効果」についての吟味が足りなかったことにも、その原因があると言わざるを得ないのです。
檄文は頭で理解するものでは無く、心で感じるものなのです。
「なるほど檄文についてお前の言いたいことは分かった。では、通常の三島由紀夫の小説はどうなのだ」との意見は当然あることと思います。それを今から検証していこうというのが、この「読詠会」の趣旨なのです。
ここで三島由紀夫が(日本の小説家の中では)例外的に数多くの戯曲を書いていたことを、思い出して頂きたいのです。
戯曲こそは、声に出して肉体で演じて初めて完結する芸術です。三島由紀夫の中には「精神と肉体の高い次元における統合への志向」があったというのは、私がいまさら語るまでのことです。
ならば、それがたとえ小説であれ、言葉の響き、あるいは韻律、私はこれを言葉における一種の肉体性と捉えておりますが、これらのことに対するこだわりはある筈であり、それを今から探しに行こうというわけです。
三島由紀夫は『文章読本』(中公文庫)の中で「普通読者でなく精読者たれ」と説いたわけですが、「読詠」は三島文学において精読の一要素足りえると思っております。
石原志乃武(いしはら・しのぶ)/昭和34年生、福岡在住。心育研究家。現在の知識偏重の教育に警鐘を鳴らし、心を育てる教育(心育)の確立を目指す。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会幹事。福岡黎明社会員。