令和4年に放映されたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はTVドラマ史上に残る傑作となった。脚本を手がけた三谷幸喜は天才と呼ぶ他ない。まさに大河ファンが三谷脚本に翻弄された一年だった。
主要キャラクターが次々に粛清されていく
『鎌倉殿の13人』は、第二代執権となる北条義時を主人公として、鎌倉幕府成立期を舞台にしている。初代将軍(鎌倉殿)となる源頼朝が北条政子と出会うところから始まり、承久の乱を経て、義時が死ぬシーンで完結を迎えた。
同作に登場する人物たちは実に魅力的に描かれた。史実において、幕府草創に貢献した人物たちの多くが内紛などによって殺害されているのだが、作中で死ぬ直前になって視聴者にことさら好印象を与え、死の衝撃を強める演出がなされていた。
革命に粛清はつきもの
後世において「鎌倉幕府」と呼ばれるようになる鎌倉武士の政権は、日本特有の革命政権だったといえる。
例えば中国では「易姓革命」が繰り返し起こり、旧王朝は必ず根絶やしにされた。フランス革命など欧州の革命でも、王族は処刑されたり排除されている。
鎌倉幕府草創期の血生臭さは、やはりこの政権が革命政権であったことを証明している。
古今東西、旧体制を打倒する過程では多くの協力者を必要とする。しかし一旦権力が交代すれば、それら革命勢力の内部で権力闘争が始まる。それが「粛清」として現れる。革命に粛清はつきものなのだ。
武士は朝廷を滅ぼさなかった
鎌倉幕府は中央政府としての統治機能を段階的に整備していったが、正統な王権たる朝廷が排除されることはなかった。それどころか、鎌倉・室町・江戸幕府に至るまで、幕府の首長たる征夷大将軍は一貫して朝廷(天皇)から任命される形式を執り続けたのである。
征夷大将軍に任じられなかった織田信長や豊臣秀吉(あわせて織豊政権と呼ぶ)もまた、朝廷から官職を与えられている。鎌倉時代以降、朝廷を廃絶しようとした権力者は皆無と言ってよい。これは世界史的に見れば実に不可思議なことだ。
宗教的権威としての天皇
古代において天皇と貴族は武力を備えていたが、時代を下るに従って武力を手放していった。その過程で貴族の末裔を擁する地方武士団が成長し、幕府などの武士による政権を樹立する。
その間、日本では権威と権力の分離が進んでいく。権威と権力の分離は絶対王政から市民革命を経て立憲君主制を確立するイギリスなどの近代国家に顕著に見られるが、日本ではかなり古い段階で始まっており、摂関政治や院政でも、すでに権威と権力の分離が行われていたといえる。
源頼朝が開いた鎌倉幕府内部でも権威と権力の分離が生じた。頼朝の直系は三代で絶え、四代目以降は藤原氏や皇族がお飾りの将軍となる執権政治が成立したのである。
特に皇統が存続した背景には、天皇がまとう宗教性に注目すべきだろう。天皇は太陽神・天照大神の子孫とされ、神道界の頂点にある。
さらに、外来宗教である仏教は当初「国家鎮護」の霊力を期待されることで日本全土に広まった。ゆえに皇族が出家して仏教界で指導的地位に就くことも多かった。
また、日本では宗教というより学問としての性格が強かった儒教においては、ことさら権力の正統性を重視する。日本において皇統ほど正統な存在はない。
神道、仏教、儒教のいずれもが天皇の権威を強める働きを持っていた。
革命に正統性を与える天皇
人類史において、特定の政治権力が永続した例はない。
日本においても政治権力者は常に交代してきた。変乱を勝ち抜いた新たな権力者は、その権力に正統性を備えることで、権力基盤の強化を図った。そこで正統性を与えることができた唯一の存在こそ、天皇だったのである。
天皇の権威は新たな権力者に正統性を与えただけではなく、権力者が交代するきっかけも与えてきた。
『鎌倉殿の13人』で源頼朝が決起する大義名分となったのは、平家追討を命じる「以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨」だった。その鎌倉幕府もまた、後醍醐天皇の命によって滅亡する。
典型的なのが明治維新だ。江戸幕府が倒されるきっかけとなったのは、幕府が米国と条約を結び開国したことに怒った孝明天皇が水戸徳川家に下した「戊午の密勅」だった。
天皇の革命原理
このように、日本における革命(日本型革命)は天皇の存在と切り離すことができない。まさに天皇は「革命原理」を孕んでいるのである。
権力は必ず腐敗するので、特定の政治権力が永続することは、国家そのものの衰退を招く。だからこそ、政治権力は腐敗する前に交代することが望ましい。そこで権威と権力が同一であれば、国家は連続性を失う。
「永続する権威」と「交代する権力」が並立することにより、日本は世界にも稀な「国家の連続性」を二千年近くも保ってきた。
朝廷という律令体制の外部に成立した「鎌倉殿」の政権は、まさに日本型革命のモデルを作ったものといえるだろう。
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