平安日本に服属した中国の王「呉越銭氏」とは

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「平安時代の日本は菅原道真の建議による遣唐使廃止以来、他国と国交を持たなかった」――一般に教科書等で流布されている歴史観である。

しかし、実はこれは誤りだ。いや、大筋では正解なのだが、とても重要な“例外”があった。

実は平安時代、中国の側から日本に対して「朝貢」してくることがあったのである。その国を呉越と言い、その王様の子孫は今でも各界で活躍している。そして、呉越の歴史は日本の王朝国家成立と決して無関係では無いのである。

的中した菅原道真の予想

寛平6年(西暦894年、皇暦1554年)、菅原道真が遣唐使の停止を建議した。もっとも、遣唐使自体は以前から殆ど派遣されなくなっていたのだが、それでもこの建議は重要であった。

何故ならば、遣唐使を停止している間に唐自体が亡んでしまったからである。

菅原道真は当時の唐が内乱で混乱しており、最早かつての日本が模倣としたような「文明国」ではなくなっていることを見抜いていた。

また天然痘やインフルエンザが決まって大宰府から流行していたことから、当時の朝廷も中国から病気がしばしば入ってくることは理解していたようである。令和の日本政府は平安時代未満であった訳だが。

菅原道真が唐に行かなかったことを「彼は小心者だった」と評価する者もいるが、それは誤った見解だろう。

当時の唐は朱全忠という男が実権を握っていたが、彼は元々反乱軍の一味であった。それが反乱軍を途中で裏切って唐側に付き、それで軍功を立てたのである。「毒を以て毒を制す」と言う訳だが、反乱軍の内紛に頼らないと反乱鎮圧が出来ないほど、唐は弱体化していたのだ。

なお、菅原道真以前から遣唐使は殆ど派遣されていなかったが、実はそれでも菅原道真には唐の状況を把握することが可能であった。当時満洲を支配していた「渤海国」が日本の朝貢国であったからである。中国の情報は満洲経由で日本に入ってきていたのだ。

昌泰4年(西暦901年、皇暦1361年)に醍醐天皇は父親の宇多上皇を軟禁した上で菅原道真を左遷する(昌泰の変)。だが、外交方針に変更は無かった。その後も渤海との外交は菅原氏が担当していたし、そもそも菅原道真失脚の数年後に彼の予想は的中し、唐自体が亡んだからだ。

延喜7年(西暦907年、皇暦1567年)、朱全忠により唐は滅亡した。最後の皇帝である哀帝は朱全忠に禅譲を行い表向きは平和裏に政権移譲が行われたが、翌年哀帝は毒殺されている。新たに皇帝となった朱全忠は国号を梁とした(後梁)。

だが、それだけだと「中国史の良くある一コマ」で終わったであろう。過去にも唐は武則天が乗っ取ったことがあったが(武周)、日本は遣唐使から国号変更の報告を受けても特にリアクションはしなかった。中国で王朝交代が珍しくないことぐらい、中国史を少しでも調べたらわかることである。

問題は、当時の「王朝交代」が気候変動と結びついたものであったことである。

温暖化による日本と中国の地方分権化

西暦9世紀後半から世界は温暖化が始まった。日本では洪水と旱魃が繰り返された。

それに対して菅原道真は律令国家の維持と地域に変動への対策とを両立させるため、国司への権限強化を推進した。無論、権限を強化した分、きちんと戸籍を作って国民に田地を配分し国家を安定させよ、と言うことでもある。

だが、菅原道真失脚の翌年である延喜2年(西暦902年、皇暦1562年)に「最後の」班田収授が行われた。

班田収授とは全ての国民に田地を配ることにより、彼らの生活を安定させると言うもので、律令国家の根幹を為す政策である。女性や奴隷にも田地を支給するなど、中国にはない制度であったが、見事に崩壊してしまった。

理由が戸籍の編纂が行われなくなったことであることはご存知の方も多いとは思うが、温暖化が起きたのは日本だけではない。

中国でも温暖化の影響で農民の反乱が頻発した。気候が安定した武周の時代との違いである。そして、唐も各地を支配する節度使に強力な権限を与えて反乱を封じ込めようとしていた。

唐を亡ぼした朱全忠が直面したのは、自分が即位する以前に地方統治の実権がもはや皇帝には無い、という現実であった。朱全忠は貴族階級への大規模粛清を行うが、そんなことをすれば地方の有力者の反応は一つしかない。「自分が粛清される前に、蜂起しよう!」である。

これまで中国の王朝交代は数百年間、形だけであっても前王朝から禅譲を受ける形で行われてきた。だが、気候変動で明日の食事にも困るような民衆がそのような「形式」を一々重んじるはずがない。

中国では古来より「不徳の皇帝は有徳の者が武力で倒せば良い、天もそれを認めて有徳の者を皇帝にするのだ」と言う思想がある(放伐)。

実は中国で放伐が起きたのは紀元前の秦の滅亡の時であって(唐のルーツでもある魏晋南北朝時代の北魏は黄帝の子孫を称しており厳密には放伐ではない)、事実上「先例が無い」ことであったが、そんなことに構ってはいられない。

中国各地で梁に従わない勢力が登場した。「五代十国時代」の始まりである。

呉越の建国と後梁の滅亡

唐から梁への禅譲を認めない楊行密は呉王を名乗り唐の年号を使い続けたが、これは大人しい方である。

後梁建国と同年に王建が蜀を建国し、皇帝を名乗った(前蜀)。

また、広東・広西等の粤語圏を支配していた劉龑は延喜17年(西暦917年、皇暦1577年)に漢を建国し皇帝を名乗る(南漢)。さらに延長元年(西暦923年、皇暦1583年)には李存勗が唐の末裔でもないのに同じ姓だからという理由で唐を建国し皇帝となり(後唐)、後梁を亡ぼしてしまう。

千年以上起きていなかった「放伐」が実現した瞬間だった。

そのような中で銭鏐により建国されたのが呉越である。呉越も後梁の建国と同年に建国されたが、こちらは後梁から王に任命された点が、梁の正統性を認めなかった他の国と異なる。

呉越は後梁の正統性を認めなかった呉と似た国号であるが、半ば意図的なものであろう。そもそも「呉」は中国南部の通称であるが、その中でも「呉県」という地名のある蘇州を巡って呉越と呉は争った。勝利したのは呉越の方であり、呉県は呉ではなく呉越が支配することとなる。

呉越の最大版図はいま呉語が使用されている圏にほぼ該当する。

一般に「中国語」と言うと一つの言語であると思われているが、実際には中国語のいわゆる「七大方言」とされるものは一つの言語と言った方がいいぐらいの違いがある。五代十国時代の「国」の中にはそうした言語圏を基盤とした国が少なくない。

先述の通り南漢は粤(えつ)語圏である。また閩(びん)語圏には閩という国が建国された。もっとも「閩」という文字はやや差別的であるとして「福佬(ふくりょう)語」や「河洛(からく)語」と言った名が良いという意見もある。

ちなみに一時期独立運動も盛んであった香港は粤語圏であり、また台湾には閩語圏からの移住民が多い。香港や台湾が中国の支配下に屈しない理由は様々なものがあるだろうが、元々異なる言語圏であったことも「自分たちは中国人ではない」と言う意識に一役買っているであろう。

呉越に話を戻すと、呉語圏には今の上海も含まれており、当然上海も呉越の支配下にあった。呉越の首都である杭州は今でも中国の市内総生産ランキングでベスト10に入っているが、その基盤は呉越時代にできた。上海、蘇州、杭州と言った今に至る経済都市を支配下に収めたのである。

日本に朝貢した呉越国

後梁滅亡後も呉越は存続した。承平3年(西暦933年、皇暦1593年)には文穆王銭元瓘(せん・げんかん)が二代目の国王として後唐から承認された。

だが、文穆王は「後唐一辺倒」の姿勢を取らなかった。後唐はその3年後に滅亡するが、文穆王もそうなることを見抜いていたのであろう、彼は別の「帝国」に目を付けた。それが日本であった。

承平5年(西暦935年、皇暦1595年)9月、呉越の使者である蒋承勲らが日本に到着した。彼は恐らく大宰府経由で羊を数頭献上した。呉越による日本への朝貢である。

羊を数頭と言っても、数人で羊を運ぶのは困難であろうから、ある程度の規模の使者を派遣したのであろう。日本の皇帝に対する朝貢の儀礼を取るためであったと考えられる。

呉越の君主が「皇帝」ではなく「王」であったのが幸いした。日本は天皇を対外的には「皇帝」と称する方針であったが、それを受け入れた国は新羅や耽羅(済州島)、渤海(満洲)に限られ、同じく「皇帝」を名乗る唐に対しては曖昧な態度をしていたと推察されている。

「皇帝」は地上に一人しかいてはならない、と言うのが中国の基本的な思想だからだ。(もっとも、まさに五代十国時代を経て中国もそのような建前を維持できなくなるが。)

翌年8月2日、日本は藤原忠平が正式に返書を出した。呉越からの朝貢を受け入れたのである。

但し呉越が日本だけでなく後唐にも服属していたことは日本側に混乱を与えた。後唐も正式な国号は「唐」であるから、唐が亡んだのかどうか、判断がつかないのである。

当時すでに渤海は亡んでいた。理由はモンゴル族の国である契丹(遼)の侵略である。契丹も君主を皇帝としており、この後中国も契丹の皇帝を肯定せざるを得なくなる。

さらにこの年は新羅滅亡の年でもある。つまり、日本は大陸にある朝貢国を失ってしまったのだ。

そんな中での呉越からの使者であるから、日本にとっては歓迎すべき相手であった。しかしながら、唐に服属していることから外交問題にならないためであろうか、国書は天皇名義ではなく「左大臣藤原忠平」の名義で送ることになり、宛先も「大唐呉越王」とした。

あくまでも唐の領域を侵害する気はない、という意思表示であろう。

同月19日、藤原忠平は太政大臣となる。その後は太政大臣名義での外交となる。時期的に呉越朝貢と太政大臣就任が無関係と考える方が難しく、藤原摂関政治の確立(王朝国家成立)に呉越国も少なからず影響を与えていたと言える。

その後も王が代わっても呉越の朝貢は続いた。最後の王である忠懿王銭俶まで呉越の朝貢は続いたのである。

今でも力を持つ「呉越銭氏」

宋が中国を統一して以降呉越は亡んだが、呉越王の子孫はその後も生き残った。彼らは「呉越銭氏」と言う。

呉越は五代十国時代の国々の中で最後まで残った唯一の国であり、目立った内紛も無かった。その間に様々な文化が栄え、銭氏自身も教育熱心な氏族として定着した。

また呉越の支配した地域は「上海出国」と言う言葉からも判るように華僑を多く輩出した地域でもある。日本への朝貢は「上海出国」の元祖であった、と言えるかもしれない。

中華思想の枠に捉われない思考こそが、世界に活躍の場を得ることへと繋がった。

銭氏も中国から出て多く活躍している。マンハッタン計画に参加した銭学森やノーベル化学賞を受賞した銭永健がその典型である。

日本に留学した人物としては魯迅の友人でもある銭玄同がおり、彼は「漢字廃止」による国語改革を主張したことで知られるが、これについては「呉語は中国語ではない」と言う事実を考慮に入れないと正当な評価は出来ないであろう。

他の著名人としては中国におけるロケット工学の父である銭偉長や小説家の銭鍾書(来日経験あり)、戦後香港や台湾で儒教を弘めた銭穆、『内藤湖南研究』の著作があり元全人代議員でもある銭婉約を始め、様々な人物が存在している。

その中には日本と関係のある方々も少なくは無いが、恐らく偶然ではないであろう。

中国を「言語圏」毎に捉えなおす発想を

粤語圏や閩語圏では今でも独立運動が存在するが、呉語圏ではそれはない。しかしながら、呉語圏は呉越のように過去独立国であったこともある。

日本は今後、中国を言語圏ごとに捉えなおすことが必要になってくるであろう。

呉越が日本に朝貢した時代は、今の時代と似ている面もある。

今の世界も気候変動が進んでいる。中華人民共和国を唐であるとすると大東亜戦争は唐が倭を破った白村江の戦であろう。中国はかつての唐を超える「大帝国」となっている。

中国が言語圏ごとに分裂する可能性を秘めているのも、今と同じだ。もっとも今の中国はそれを防ぐためか、標準語教育を進めている。だが呉越銭氏のように今でも過去独立していた頃にアイデンティティーを持っている人たちがいる。

呉越の文化が日本に影響を与えていると言う説や呉語が日本語に影響を与えていると言う説(「日本」を「ニッポン」と呼ぶことや、食事をする店が「喫」茶店なのも呉語の影響なのだと言う)も聞いたことがある。

それが事実かは私の知識では確認できないが、日本と呉越に代表される呉語圏との歴史的な関係性は、今後中国と向き合う上での一つの参考となるはずだ。

呉越と日本の歴史に改めて光を当てることが、今後日本がアジアで発展していく上での一つの糸口となるであろう。その際に忘れてはならないこと、それは呉越が日本に朝貢した理由は、日本の元首が天皇陛下であったからだ、という事実である。

日野智貴(ひの・ともき)平成9年(西暦1997年)兵庫県生まれ。京都地蔵文化研究所研究員。日本SRGM連盟代表、日本アニマルライツ連盟理事。専門は歴史学。宝蔵神社(京都府宇治市)やインドラ寺(インド共和国マハラシュトラ州ナグプール市)で修行した経験から宗教に関心を持つ。著書に『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独――消えた古代王朝』(共著・明石書店、2020年)、『菜食実践は「天皇国・日本」への道』(アマゾンPOD、2019年)がある。

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