いま明治維新が話題だ。
というのも、来年2018年(平成30年)が明治維新から150年にあたるためだ。どのタイミングを持って「明治維新がなされた」かは議論があるが、鹿児島市などは「明治」に改元された1868年を維新の年として明治維新150年カウントダウン事業を行なっている。
それだけではない。平成30年のNHK大河ドラマの主人公はあの「西郷隆盛」なのだ。西郷隆盛といえば明治維新の立役者であり、東京・鹿児島などに銅像も立っている大英雄だ。鹿児島市には「南洲神社」という、西郷を祀る神社まである。
ところが近年、西郷を始めとする維新の志士を「テロリスト」呼ばわりする「歴史作家」が現れた。『明治維新という過ち』など一連の著作で話題になった原田伊織氏である。
明治維新とは長州藩、薩摩藩の下級武士が主導した軍事クーデターに過ぎず、政権を強奪した薩長は「勝てば官軍」とばかりに歴史を書き上げた。(中略)軍事クーデターに失敗して不利な立場にいた薩長は、江戸市中で仕掛けたテロを契機にまんまと戊辰戦争に突入し、結果的に倒幕を成し遂げた。(SAPIO誌2017年9月号より)
小学館のオピニオン誌SAPIOは「明治維新150年の過ち」という扇情的なタイトルで特集を組み、巻頭で「われわれは明治維新150年を迎えようとしている今、[勝者]のみによって語られた歴史を問い直し、冷静に検証する必要があるのではないか」と提起する。(同上)
SAPIO誌の主張は一見もっともに思えるが、原田伊織氏による明治維新「断罪」は度を越している。筆者は氏の代表作『明治維新という過ち』も一読したが、維新の志士に対する罵詈雑言に満ちた悪書で、読むに耐えないものだった。
原田氏は現在の明治維新に対する通説的評価を「官軍史観」として全否定する一方、江戸幕府を過剰に礼賛し、幕府が続いていれば昭和の敗戦もなかった、平和国家日本が実現していたなどと妄想を膨らませている。
これは、江戸時代を肯定して明治以降の近代日本を貶める「新しいタイプの自虐史観」ではないだろうか。江戸時代を再評価する動きはここ10数年のトレンドでもあり、歴史好きな保守層にも受け入れられやすい。
従来の左翼的な自虐史観は、主に満州事変から大東亜戦争敗戦に至るわが国の対外戦争を断罪するものだった。司馬遼太郎氏などは昭和日本を否定する一方で明治維新を礼賛し、司馬史観として多くの国民に受け入れられてきた経緯がある。
つまり、いま話題の「原田史観」ともいうべきものは、昭和時代に対する自虐が明治時代にまで遡ったに過ぎない。さらには、明治維新の思想的背景になった水戸学、その淵源たる水戸黄門(徳川光圀)まで誹謗中傷しているのだから呆れたものだ。
いったい明治維新とは何だったのか?
その評価は、実際に明治時代がどのような時代だったのかを検証せねば判断できない。平成28年に出版された『明治という奇跡』(展転社刊・皿木喜久著)は、そんな明治時代を深く知ることのできる良書である。
たとえば数百年も続いた封建制度を一滴の血も流さず廃止、中央集権国家に変えたのは、武士たちの類希な自己犠牲の精神があったからだ。(中略)そうした事実の前には、明治維新を矮小化しようという一部の試みも色あせてしまうだろう。(『明治という奇跡』3頁)
産経新聞客員論説委員で、新しい歴史教科書をつくる会副代表の皿木喜久氏は、「明治維新を[過ち]とし、明治という時代をことさらに貶めるような風潮(同上)」を憂い、いまこそ「明治の精神」をよみがえらせるべきだと喝破する。
さらに『明治という奇跡』から引用する。
「王政復古の大号令」とこれに基づく明治維新に対し現在でも、「陰謀による武力クーデター」とか、「幕府勢力と振興武家プラス公家勢力との権力闘争」とあえて矮小化する見方も根強い。/むろんクーデター的性格や権力争いの面を完全否定することはできない。だが、少なくともそれを担った者たちの意図がもっと高いところにあったことは、その「王政復古の大号令」を一読してもわかる。(『明治という奇跡』11頁)
王政復古の大号令において新政府は、新たな国家ビジョンとして「神武創業の始めに」立ち返ることを宣言している。これは、「建武の中興(建武の新政)」や「大化の改新」でも良かったのだが、「神武天皇の時代には藩も封建制もなかった(同書)」ため、わが国が封建制を脱して近代国家を建設する「理論的支柱」になったというわけだ。
つまり、単に徳川幕府を倒しただけでは、権力が「雄藩」に移動するに過ぎない。明治政府は発足当初、そのような雄藩連合・列侯会議によって運営されると目されていたが、明治維新の元勲たちは「それでは植民地化を防げない」という危機感を抱いていた。
明治2年の版籍奉還、明治4年の廃藩置県によってわが国の封建制度は終焉し、強力な中央集権化によって近代国家として歩み始める。もし明治維新が原田氏のいうような「テロリストによる軍事クーデター」だったとしたら、わが国は近代化するどころか内戦で分裂し、西欧列強の草刈り場になったことだろう。
明治維新という歴史上の「奇跡」は、サムライたちの「自己犠牲の精神」によって成し遂げられた。その後の明治時代もまた、「自己犠牲の精神」の時代だった。
『明治という奇跡』を読めば、明治天皇から庶民に至るまで、当時の日本人がいかに涙ぐましい努力によって近代国家を建設したのかがわかる。維新が、自己犠牲の革命だったからこそ、そのような「明治の精神」が発現したのだ。
11月3日は祝日法で「文化の日」と定められている。この日は日本国憲法が公布された日でもあるのだが、実は明治天皇の誕生日であり、明治時代は「天長節」、その後は「明治節」と呼ばれ、戦前も祝日だった。
いまその「文化の日」を本来の「明治の日」に改めようという国民運動が起こっている。明治の日推進協議会(塚本三郎会長)は、「明治の日」を制定することで「明治時代を振り返ることを通じて国民としてなすべきことを考える契機に」したい、として各地でシンポジウムを開催している。
平成29年10月29日には「明治150年記念シンポジウム」と題して東京の星陵会館で専門家によるパネルディスカッションを開催する予定だ。
▽明治150年記念シンポジウム
https://www.facebook.com/events/1727390874230635/
明治維新の再評価にタブーがあってはならないし、歴史研究が進めば、今後も新たな一面が発見されることだろう。現代の価値観から過去を一方的に断罪するのではなく、先人の労苦に謙虚に学び、今後の生きる糧とすることこそ、現代日本人に求められていることではないだろうか。
本山貴春(もとやま・たかはる)独立社PR,LLC代表。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会副代表。福岡市議選で日本初のネット選挙を敢行して話題になる。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。