見沢知廉は20年前の今日、9月7日に急逝しました。明日8日に新宿のロフトプラスワンで追悼イベントが開催されるのを前に、これまで蒐集してきた資料などを見返しているうちに、この20年があっという間であったことを思い知らされました。
見沢知廉とは
作家・見沢知廉(本名・高橋哲央)は昭和34年8月23日、東京都文京区に生まれました。
高校時代から新左翼活動家となり、「成田闘争」に参加。この頃から小説の執筆を始めます。
しかし、三島由紀夫を追悼する「憂国忌」に出席したことをきっかけに新右翼に転向。そこで統一戦線義勇軍書記長に就任するなどし、理論派の活動家として知られるようになります。
そして昭和57年9月に「スパイ粛清事件」を引き起こし、実刑12年を宣告されます。獄中で執筆を続け、出所前の平成6年に新日本文学賞(佳作)を受賞、満期出所後に『天皇ごっこ』で作家デビューしました。
その後、『囚人狂時代』が8万部のベストセラーになり、『獄の息子は発狂寸前』、『調律の帝国』などを立て続けに発表。『調律の帝国』は三島由紀夫賞候補になりました。
また、「群像」「文学界」「別冊宝島」「週刊プレイボーイ」「BURST」「創」「テアトロ」「GON!」「BUBKA」に連載するなど、幅広く活躍しています。
ところが平成17年、横浜市の自宅マンション8階から転落し、逝去。46歳でした。死後にも作品が刊行され、舞台化・映画化もされています。
見沢知廉と私
私が見沢知廉の著作を初めて手に取ったのは新潮文庫版の『天皇ごっこ』でした。それ以降、見沢の新著はほぼ全て読んでいました。見沢自身が開設した公式サイトを見て新刊が出ることを知った時は、自分のブログでそのことを紹介し、心待ちをしていると書きました。すると「misawa」を名乗るアカウントから「ありがとう」コメントをもらったりもしました。
しかし直接的な交流がないまま、たまたま読んでいた新聞の夕刊で見沢知廉の急逝を知り、非常な衝撃を受けました。それからすぐにファンサイト「白血球」を開設し、東京で複数行われた追悼行事にも駆けつけ、関係者やご家族とも交流することができました。
実は、その頃に様々な人が見沢知廉に関する資料を私に託してくれました。私はそれらの資料を整理し、できる限り公開したいと考えておりました。しかし社会人になり、政治活動や社会運動にも取り組む中で、その「仕事」を果たせずに20年が経ってしまったのです。慙愧に堪えない思いです。
この間に、御母堂の高橋京子さんや、一水会顧問の鈴木邦男さんも亡くなってしまいました。見沢さんを知る人が減っていく中で、私の中の焦りも大きくなってきました。
私は見沢知廉の小説を愛することと一体不可分に、活動家としての見沢知廉(活動名=清水浩司)を深く尊敬し、共鳴しておりました。自分自身も新右翼系の活動家としての道を歩みながら、どこか心の中で見沢さんに許しを求めてきたことは否めません。
しかし改めて見沢知廉の遺した作品や資料に触れるうちに、自分のこの20年間も活動すら甘かったのではないか、もっと命懸けで駆けるべきではないかという思いを強くしています。そう思わされる恐ろしい狂的なパワーが、見沢知廉の小説にはあります。
スパイ粛清事件
見沢知廉の作品で最も有名なのは『天皇ごっこ』です。大浦信行監督によるドキュメンタリー映画のタイトルも『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』(平成23年公開)でした。劇団再生(オフィス再生)の高木尋士氏も「天皇ごっこ」を含むタイトルで複数回、演劇を上演しています。
私が最も好きな作品も『天皇ごっこ』なのですが、最高傑作は『蒼白の馬上』(青林堂)だと考えています。同作は平成12年ごろに雑誌「ガロ」に連載され、翌年刊行されました。見沢作品の中でも特に純文学的要素の強い作品であり、作者が苦しみながら書いたことが伝わってきます。
その小説はこう始まります。
ある朝ぼくが死体で発見される。
見沢知廉『蒼白の馬上』
透明な神話が始まる。磨ぎ過ぎて尖端が折れた寸詰まりのナイフの夜が痛ましい、内意なき自動症と似寄る空の色傾く華々が。見は三島のミ、廉は、白蓮ハ泥ノ中二咲ク、の華厳から。その俗臭い汚泥から生き育ち、池一面を隙なく隠し包む白無垢の蓮華の連なり。細心の幾何学的配列が紡ぐ命懸けの洗練が、もう誰も笑わない、かつての夢想的で現実適応能力がない、騒がしく生気ばかり目立った一個の不良の、朝によく映える死体とその凡な市民社会を遥かに超越して。
死は死に行く者にとって不幸ではない。それはただ、生き残った者にとってのみ不幸なのだ。
見沢知廉が投獄される要因となった昭和57年のスパイ粛清事件。この『蒼白の馬上』はまさにその殺人事件を描いたものです。
見沢知廉は11歳にしてヒトラーの『我が闘争』を読み、衝撃を受けています。早稲田中学に進学後は非行に走り、早稲田高校時代に作家を志すようになります。高校2年の時、期末試験中に教壇に登って試験用紙を破って「教育批判」演説をぶったことで新左翼に誘われ、中央大学法学部在学中に「成田闘争」に参加しました。
しかし三島由紀夫に対する評価をめぐる対立から新左翼に失望し、「憂国忌」(三島由紀夫慰霊祭)参列を契機として新右翼に転向。新右翼の行動体である「統一戦線義勇軍」や「一水会」の構成員として活動を開始します。当時の義勇軍は過激派で、見沢はロシア大使館やアメリカ大使館を襲撃し、イギリス大使館も火炎瓶で放火しました。その「闘争」の中で、スパイ査問、粛清へ至ります。
囚人作家として
見沢知廉は殺人罪のほかテロの容疑で懲役12年の判決を受け、投獄されます。獄中の様子はエッセイ『獄の息子は発狂寸前』(ザ・マサダ)などでも繰り返し語られていますが、約8年間を懲罰房(単独室への隔離収容)で過ごすなど、模範囚の対極にありました。そのため、仮釈放もなく満期出所しています。
『天皇ごっこ』では、昭和天皇崩御の際に「恩赦」を請願するなど、獄中でも政治運動を続ける囚人の様子が描かれます。見沢知廉は母親への手紙に偽装した小説執筆を続け、新人賞に応募し続けました。その母子共同作業による努力が実り、出所後に作家としてデビューすることになるのです。(獄中でコスモス文学賞・新日本文学賞受賞)
見沢知廉が獄中で書いたのは小説だけではありません。新左翼の活動理論を新右翼に適用すべく政治論文を発表し、後に『民族派暴力革命論』としてまとめられました。出所後も新右翼民族派の政治集会に登壇し、激しい演説を行なっている様子が映像として残っています。
刑務所に収監されたのが23歳、出所時には35歳になっていました。見沢知廉は収監中に医療刑務所で精神薬を投与されるなど、肉体的精神的に大きなダメージを負っていました。その後遺症は晩年まで見沢知廉を苦しめ、死期を早める要因になったとも考えられます。
それでも38歳の頃は多くの雑誌に連載をもつ売れっ子作家になっていました。その半生を題材にした舞台も上演されたといいます。そして39歳の時には『調律の帝国』が三島由紀夫賞候補となります。見沢知廉にとって三島の名を冠する文学賞は特別な意味を持っていましたが、受賞は叶いませんでした。
しかし出所後の無理が祟ったのか、40歳前後で長期の入退院を繰り返すようになります。晩年には自ら指を切断するような自傷行為も繰り返すようになっていました。そして46歳のとき、横浜市の自宅マンション8階から転落し、帰らぬ人となったのです。
死後、小説『ライト・イズ・ライト』『七号病室』『愛情省』 (作品社)などが立て続けに刊行されました。
見沢知廉なき20年
作家としての見沢知廉は、さほど多作とはいえないかも知れません。しかしその特異な経歴、独特の文体で、戦後日本文壇に異彩を放っていました。
また見沢知廉は、「作家らしい作家であろうとした」最後の作家だったようにも思います。見沢知廉のスタイルには、明治以来の「文士」の残影がちらつくのです。
さらに、見沢知廉は活動家出身だけあって、政治問題には非常に敏感であり、壮大な革命構想を抱いていました。そのため、若手の右翼活動家を見出だし、雑誌連載の中で絶賛するようなこともありました。見沢知廉の作品の中では、登場人物たちが繰り返し革命ビジョンを熱く語ります。
次にTは、舌の上で世界革命のワルツを奏で始めた。
見沢知廉『天皇ごっこ』
「鉄は国家なり、の時代は終わりました。もはやハイテクが国家であり軍事です。日本はその最先端にいます。これで再軍備化すればたちまち米中に急迫する。しかしそれだけじゃ足りない。日本の権力を奪取したら、国家や議会、政治屋など非効率で無駄なものを一掃する。教育機関を一変させ、ゼロ歳から英才教育を義務教育化する。大学の九十五パーセントは理工系にする。全国を筑波都市化する。税制でハイテク企業を徹底的に伸ばす。それと国家が宇宙、軍事、化学の大プロジェクトをくむ。非ハイテク産業は関税等で淘汰する。民族の徹底合理化だ。非機能的な一切の機構を排除する。コンピュートピアを実現してしまう。バイオ、核、オプト、LSI、宇宙の最先端研究の頭脳を世界から集中する。いや、胎児から義務教育化して青少年の九十パーセントを科学者にし、残りをグリーンベレー的な特殊部隊やモサド以上の諜報機関員にする。陸軍なんかほとんどいらない。世界一の宇宙軍とNBC軍を建設する。二十年で他国と日本人のIQ差を四十から五十にまで高めあげる。チンパンジーと人間並みの差をつける。そして、人間量をもつ第三世界の非白人カラードと軍事同盟し、米露の核をSDIや電子戦や粒子放射で無力化し、BC兵器に万能のワクチンを開発し、すべてのICBM、SLBM、戦略爆撃機への抑止力をそなえ、白人の大量殺戮兵器を無力化し、そこに第三世界同盟の大量兵士が白兵戦で怒涛のごとく流れ込むんです。どうです? 勝てるでしょ? 不可能じゃないでしょう。日本ならやれるんですよ。世界統一に、今の日本が一番近くにいるんだ」
作家の中には三島由紀夫のように、予言者的な側面を持つ人物がときおり現れますが、私は見沢知廉もその一人ではないかと思うのです。
見沢知廉が属していた政治イデオロギーは新右翼ですが、この立場については解説が必要でしょう。戦後日本の左右対立は、米ソ冷戦の強い影響下にありました。親米派が右翼(保守)、親ソ親中派が左翼(革新)を構成していました。(保守と右翼を峻別する論もありますが、本来は同じ意味です)
その中で、左翼の中で日本共産党に反発した勢力が新左翼を構成し、右翼の中で自民党的な親米路線に反発した人々が新右翼(民族派)運動を興したのです。とくに新右翼は三島由紀夫による楯の会事件の影響を色濃く受けていました。
新右翼の代表格であり、かつて見沢知廉も所属していた一水会は、近年では反米を通り越して「親露派」として知られるようになりました。また、見沢知廉が書記長を務めた統一戦線義勇軍は近年、主に「右からの反原発」運動を提唱しており、一水会とは一線を画しているようです。
また、かつて参院選に繰り返し確認団体として候補者を擁立していた維新政党・新風も新右翼系の政治団体です。私は20代の頃、新風の地方幹部として政治活動に従事していました。その他、最大の保守系団体とて知られる日本会議(とくに中枢の日本青年協議会)も新右翼系の勢力としてカテゴライズされる場合がありますし、東京で憂国忌を主催している三島由紀夫研究会も新右翼系といえるでしょう。
私は、新右翼勢力の本質は反米よりも「独立志向」にあったと考えています。新右翼の政治観は、戦後日本を「GHQによる占領体制の継続」、日本を米国の属国であるとみなして「戦後体制脱却」を唱えました。この考え方は故・安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」というキャッチコピーにも影響を与えています。
新右翼諸団体は、近年の「ネット右翼」的な潮流の中で生まれた極右政党の勢いに押され、影に隠れてしまいつつあります。そもそも新右翼組織創設者たちの多くは団塊世代であり、世代交代が進んでいないという側面もあります。しかし一方で、国際社会において日本が国家としての自立を求められているのも現実です。
時代はまさにいま、作家・見沢知廉を求めているように思えてならないのです。
【9月8日】没後20年の見沢知廉【新宿】
令和7年9月に見沢知廉没後20年を記念して、新宿ロフトプラスワンでトークイベントが開催されます。ネット配信もありますので是非ご覧ください。
日時 令和7年9月8日(月)19時より(開場18時半)
企画・司会 鴇田義晴(批評家・フリーライター)
登壇 雨宮処凛(作家)、深笛義也(作家)、好事家ジェネ(YouTuber)、本山貴春(戦略PRプランナー)、曽根賢(作家、編集者)
▽詳細(ロフトプラスワン)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/plusone/329869


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